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明るい空を背に、彫刻で飾られた瑞泉寺の屋根の破風

井波 · 富山 · 日本

井波彫刻

250年以上にわたり、この門前町の彫刻師たちは、人々が祈り、集い、暮らす場所の一部となる作品を木から彫り出してきました。

井波・瑞泉寺

01起源

町の中心にある寺

石畳の八日町通りは、井波の町なかを抜けて瑞泉寺の門前へと続いています。参道には彫刻工房が軒を連ね、いまの仕事は、それを育んできた寺から歩いてすぐのところで営まれています。600年以上にわたり、瑞泉寺は井波彫刻を生み育てた人々と注文、そして知識をこの地に呼び寄せてきました。町の物語は、この寺から始まります。

冬の八日町通り。彫刻工房の屋根に積もる雪、通り沿いの灯り、その向こうの山並み
冬の八日町通り。瑞泉寺へと続く通りに、彫刻工房が軒を連ねています。
杉木立に囲まれ、二重の屋根を戴く瑞泉寺の太子堂

通りの突き当たりに建つ瑞泉寺の太子堂。

1390

門前町のはじまり

瑞泉寺は1390年、本願寺第5代綽如上人によって、京都の本願寺の別院として創建されました。創建当初から、富山の山あいにあるこの町は都と結ばれ、京都の文化がいち早く井波にもたらされました。その後、本願寺第8代蓮如上人の北陸布教によって瑞泉寺は急速に寺勢を広げ、勝興寺と並んで、越中における浄土真宗の二大拠点の一つとなりました。

町は寺の門前に開けました。信仰の中心である瑞泉寺のまわりには人々が集まり、壮大な木造の堂宇を建て、守り続ける務めが、宮大工が井波に根を下ろす礎となったのです。彼らの腕はほどなく瑞泉寺を越え、地域各地の寺社でも振るわれるようになります。やがて大工の家々は町に仕事場を構え、大規模な木造建築を建てるための知識と、新たな仕事を呼び込む人とのつながりとを、ともに受け継いでいきました。

瑞泉寺の式台門。黄色い塀のあいだに建つ、曲線を描く屋根に彫刻をめぐらせた門
瑞泉寺の格式ある門、式台門。1792年、唐破風の屋根を戴く姿で再建されました。勅使門の名でも知られ、また扉の上に掲げた金色の菊の御紋から菊の門とも呼ばれます。
瑞泉寺式台門の中央の部材に彫られた獏と、その下の金色の菊の飾り金具
式台門の中央、金色の菊の飾り金具の上の部材に彫られた獏。悪い夢を食べるとされる霊獣で、守護の象徴です。

1581

焼失と再建

戦国時代、瑞泉寺の門徒たちは信仰を守るため、武士の支配に抗して戦いました。1581年、寺は織田信長の配下として越中を治めていた佐々成政の軍勢によって焼き払われます。その後、寺は現在の高台の地に再興され、再建のために大工たちが集まりました。やがてこの地を治めた加賀藩前田家のもとで、井波は、藩の普請と領内の寺社建築の双方に技を尽くす宮大工の町へと発展していきました。

1594年、前田家は、守山城の普請をはじめとする働きへの褒美として、10人の大工に屋敷地を与えました。技をもって奉公する見返りに諸役を免除された彼らは「井波拝領地大工」と呼ばれ、4人の鍛冶も同じ特権を受けています。その仕事場は、のちに町の彫刻が形をなしていく建築の伝統の礎となりました。そのなかの一家が番匠屋(田村家)です。番匠屋は江戸から明治を通じてその地位を保ち、やがて大工から彫刻へと家業を転じていきました。

1760年代

町の大工たちの新たな道

瑞泉寺境内の木立に立つ、彫刻道具を手にした前川三四郎の像
瑞泉寺境内に立つ前川三四郎像。

1760年代、大火によって寺はふたたび焼失し、その再建のために京都から職人たちが井波へやって来ました。本山の東本願寺はお抱えの棟梁を差し向けて再建を指揮させ、京都の彫物師たちもこれに同行しました。

そのなかに、彫物師・前川三四郎がいました。地元の伝承によれば、三四郎は町の大工4人に高度な彫刻の技を伝えたといいます。1774年に本堂が再建されたとき、その彫刻を手がけたのは京都の職人たちでした。牡丹と龍は清水安之丞、雲間の天人は三四郎の作です。しかし井波の大工たちも彼らと並んで働き、建てながら学んでいました。番匠屋の記録は、9代目の七左衛門が三四郎に彫刻を学んだと伝え、この七左衛門を「井波彫刻ノ元祖」としています。

京都の棟梁たちが帰洛したのは、1791年になってからのことです。そのころには七左衛門は、自ら仕事を率いるようになっていました。棟梁として本堂内の宮殿を完成させ、京都の棟梁の一人から相伝書を授かっています。1792年には、式台門の小脇板に「獅子の子落とし」を彫り上げました。

井波の大工たちが学んだものは、すでに建築の技に富んでいたこの町に根づきました。知識が仕事場から仕事場へと伝わるにつれて、彫刻はしだいに独立した専門の仕事となり、今日、井波の名を冠して知られる伝統の礎が築かれていきました。

1805

大工の仕事場から彫刻師の町へ

1805年、井波の棟梁・松井角平のもとで、瑞泉寺の壮大な山門が完成しました。寺の記録は、その龍と波を前川三四郎の作としています。三四郎とともに井波の職人たちも腕をふるい、門の正面に並ぶ仙人は岩倉理八が、小脇板や唐戸は地元のほかの職人たちが手がけました。この山門は、井波の大工が初めて彫刻の腕を認められるきっかけとなった仕事として記憶されています。

江戸時代、建築彫刻は、寺社を建て、修理する宮大工の仕事のなかで、しだいに専門化していきました。それを専らとする者は彫物大工と呼ばれました。井波では、彼らの仕事がやがてそれだけで身を立てられる生業となり、地元の記録には、町の大工と並んで、1806年に2人、1810年に7人の彫物師が記されています。同じ1810年には、加賀藩が井波の彫物師を藩の造営の御用に召し出しました。寺社からの注文は続き、さらに祭りの曳山や屋台が、別の種類の仕事をもたらしました。通りに集まる群衆に向けて彫られる龍や獅子、伝説の場面です。こうして仕事場は数を増していきます。弟子たちは一人前の職人のもとで修業を積んで独立し、やがて自らも弟子をとり、町はいよいよ彫刻の町として知られるようになりました。

反りの大きな屋根の下に彫刻をめぐらせた、瑞泉寺の二層の山門
1805年に完成した瑞泉寺の山門。三四郎の龍は、門の内側、扉の上に彫られています。
瑞泉寺山門の上に彫られた、雲と波のなかの龍

前川三四郎 · 瑞泉寺

《雲水一疋龍》

三四郎作と伝わる龍は、いまも瑞泉寺の山門を見守っています。1879年、寺がふたたび火災に見舞われたとき、山門は焼失を免れました。地元には、この龍が門を抜け出して井戸の水を吸い上げ、火を消し止めるのを助けたという言い伝えが残っています。

この言い伝えは、いまや寺と切り離せない存在となったこの彫刻が、どれほど人々に慕われてきたかを物語っています。

生きた教科書

その後継者たちは、今日彫刻師と呼ばれています。建築に根ざした伝統を受け継ぎながら、はるかに幅広い分野で制作する木彫の作り手たちです。彼らにとって瑞泉寺は、いまも生きた教科書です。構図がまとまらないとき、新たな着想が欲しいとき、彼らはいまでも寺まで歩いて行き、その彫刻に学ぶことができます。そこには、目を凝らせば誰にでも見てとれる形で、幾世代にもわたる経験が刻まれています。

瑞泉寺式台門の、風雨にさらされた柱の脇の縦長の彫刻板。滝の上の崖に立つ獅子と、谷底の子獅子
番匠屋七左衛門が瑞泉寺式台門のために彫った「獅子の子落とし」。1792年。

02欄間

住まいに彫刻を

井波の彫刻師が手がけてきた数々のかたちのなかで、町と最も深く結びついているのが欄間です。彫刻欄間では、鴨居の上の細長い板が、ひとつの風景にも、花咲く枝にも、部屋の幅いっぱいに繰り広げられる情景にもなります。

透かし彫りの欄間は、隣り合う部屋のあいだに光と風を通します。見る位置や光の移ろいによって、その彫りの深さと細部が少しずつ姿を現します。

開け放たれた堂の扉の上に並ぶ彫刻欄間
寺院の欄間大きく、彫りは深く大胆。はるか下から見上げられることを前提に作られます。
襖の上に彫刻欄間がはめ込まれた和室
住まいの欄間より軽やかで開放的。部屋の大きさに合わせて作られます。

明治

明治時代(1868〜1912年)

住まいの寸法へ

欄間はもともと寺社のもので、多くは大きく重厚な造りでした。壮大な建築のために作られたそれらは、民家の小さな空間には不釣り合いなものでした。

明治時代、井波の名工・大島五雲は、欄間を住まいのためにとらえ直し、より優雅で繊細な、見た目にも軽やかな作品を生み出しました。余白を広くとることで、欄間は住まいのこぢんまりとした空間に自然になじむようになったのです。

五雲の弟子のひとりに、初代南部白雲がいます。白雲は、この新しい流れを推し進めた同時代の職人たちのひとりとして余白の生かし方を磨き、井波に住まいのための新しい彫刻の時代を築く一翼を担いました。いまの言葉でいえば、一種の商品開発です。長く培われてきた知識を、新たな建築の場に合わせて生かしたのです。

こうした欄間の多くは、家が客を迎える座敷のために作られました。そこに掲げられる彫刻は、もてなしの心や主人の好み、家の行く末への願いを表すことができ、彫刻師は、一家が住まいを世にどう示すかに一役買うことになりました。

二つの部屋から見る構図

欄間の多くは2枚一組で作られ、それぞれの板は表裏の両面に彫刻が施されました。裏面は表と呼応することもあれば、表を別の解釈で描き直すことも、まったく別の題材を見せることもあります。作り手は両側からの眺めを思い描きながら、作品全体の強度を保たなければなりませんでした。

ここに、透かし彫りならではの難しさがあります。絵画のように、何もない空に鳥をただ浮かべることはできません。枝や雲などで鳥をまわりの材とつなぎ、彫刻全体を支えながら、それらが情景の一部として自然に見えなければならないのです。

こちらの部屋

一対の欄間の1枚目、表面。葦と渦巻く水の上を飛ぶ雁
一対の欄間の2枚目、表面

隣の部屋

一対の欄間の1枚目、裏面。隣の部屋に向けて彫られた同じ情景
一対の欄間の2枚目、裏面。隣の部屋に向けて左右を反転させた、葦と渦巻く水の上を飛ぶ雁

一対の彫刻欄間。葦と渦巻く水の上を飛ぶ雁を両面に彫り、どちらの部屋にもそれぞれの構図が見えるようにしています。《葦に雁》。松永正行(生没年不詳)、明治前期、19世紀後半。イチイ材。個人蔵。

欄間の枠の上、渦巻く水から伸び上がる葦の彫刻(拡大)
部分。渦巻く水から伸び上がる葦。
欄間の枠の下を飛ぶ2羽の雁の彫刻(拡大)
部分。枠の下を飛ぶ雁。

木に刻まれた家の物語

ある種の題材は、家の者にも客にも読み取れる意味を帯びていました。松竹梅は風雪に耐える強さと吉祥を、鶴は長寿を表し、風景は思い入れのある土地を偲ばせることもありました。こうしたなじみ深い画題に加え、依頼主ならではのもの――故郷、家族の思い出、個人的な縁のある題材――から始まる注文もありました。

彫刻師の務めは、こうした思いをひとつのまとまった図案へと描き上げることでした。すぐれた欄間は、作り手の腕を示すだけでなく、その部屋と、そこに暮らす人々にふさわしいものでなければならなかったのです。

雲間を飛ぶ鶴を描いた、欄間のための横長の墨の下絵。両端に書き込みがあるその下絵から彫られた欄間。濃色の漆塗りの枠に収まる、雲間を飛ぶ鶴
下絵彫刻
ある家の欄間のための下絵と、それをもとに彫られた欄間。下絵には1925年10月の日付と寸法が書き込まれています。
年配の男性が見守るなか、和室の鴨居の上に彫刻欄間をはめ込む2人の男性
完成した欄間国内の住宅への取り付けの様子。

戦後

繁栄の時代

第二次世界大戦後の数十年間、経済成長と住宅の新築が進むなかで、井波彫刻の需要は、とりわけ地元・北陸で高まっていきました。座敷の彫刻欄間や玄関の衝立は、その家の繁栄と、住まいへの誇りを表すものとなったのです。

客を迎える部屋を飾ったこれらの作品は、家の人づきあいのなかに職人の技の居場所をつくりました。一つひとつの注文は施主の好みを映し出すと同時に、この技に何ができるかを人々に示すものでもありました。

最盛期

300

この需要によって、井波の工房は多くの職人と弟子を抱えることができました。最盛期には、弟子や組合に属さない職人も含めて約300人がこの仕事に携わり、その営みは、彫刻工房と生業で結びついた材木商や製材業者、道具鍛冶の暮らしをも支えていました。

縦長の木の板に彫られた、雲を突いて昇る龍

03技法

引き算の技

欄間は井波の技を多くの家庭に届けましたが、この町の作り手たちは、いつの時代もより幅広い分野で仕事をしてきました。寺社の装飾、祭りの彫刻、仏像、看板、家具、修復、そして独立した美術作品。そのいずれにも、大きさ、素材、意味をめぐる固有の課題があります。

依頼の多くは、作品が置かれる場所や、それを受け取る人、あるいは共同体についての対話から始まります。彫刻師はそこから下絵を練り、題材を立体の構想へと変えていきます。何を手前に浮かび上がらせ、何を奥へ退かせるか。光をどこに通すか。完成した形を木がどう支えるか。そこから先は、すべてが削り取ることの積み重ねです。

龍の彫刻板、井波。

縦長の木の板に彫られた、渦巻く雲の下へ降りてくる龍

下絵の机で

作り手はまずスケッチで題材を探り、さまざまな構成を試してから、原寸下絵に取りかかります。完成作と同じ大きさで描くことで、構図のつり合い、置かれる場所との関係、そして形と形をつなぎとめる接点を見極めることができます。

この段階で、彫刻の大部分はすでに考え抜かれています。平面の図案が立体へと変わっても保たれなければならない関係を、下絵が定めるのです。もっとも、作り手はその後も材に応じて手を加え続けます。

古代エジプトのワインづくりに着想を得た、ワインセラーの彫刻のための鉛筆スケッチ。3枚のパネルにわたって、ぶどうの蔓の下で人々がぶどうを摘み、運び、踏んでいる
スケッチ古代エジプトのワインづくりに着想を得た、ワインセラーの彫刻のためのスケッチ。まだ原寸に描き起こして和紙に写す前の段階です。
作業台いっぱいに原寸下絵を広げる彫刻師
原寸下絵作業台に広げた、和紙の原寸下絵。
全体を広げた墨の原寸下絵。神社のかたわらの老松、石灯籠、笹など、名古屋の風景
下絵の全体同じ下絵の全体。故郷を彫刻に表したいという依頼主のために描かれた、名古屋の風景。

木の個性

彫り始める前に、職人はその作品にふさわしい材を選びます。木目や重さ、ノミへの応え方が、大きな形からごく細かな部分に至るまで、構図を左右します。

井波の欄間や装飾彫刻には、楠(くすのき)が広く用いられます。色合いや独特の香り、彫りやすさが重んじられ、こうした作品を埋めつくす入り組んだ枝や羽根、幾重にも重なる風景を彫るのに向いています。

依頼が違えば、求められる性質も違います。欅は木目の美しさが珍重され、彫像や建築彫刻に用いられます。檜は仏像などの宗教的な作品に、軽い桐は、祭りで担いだりかぶったりする獅子頭に特に適しています。依頼によっては、職人は世界各地の木を単独で、あるいは組み合わせて用い、その自然な色や木目、質感を生かすこともあります。

樹種を選ぶのは始まりにすぎません。材は入念に乾燥させなければならず、どの一本にもそれぞれの可能性と制約があります。木目がどこで向きを変えるか、細い形のどこに支えが要るか、刃を入れたときに木がどう応えるか――それは、彫刻師が生涯をかけて蓄えていく知識です。

丸太の木口。芯から広がる年輪と節
獅子の木地に描かれた線に沿ってノミを入れる土田信久。傍らに下絵
01 — 荒彫り

形を定める

図案を木に写したら、切り出しと荒彫りによって主な形をつくります。幅の広い刃物と槌で材を落とし、そこから構図が立ち上がってくる彫りの高低を定めていきます。

岩倉綾泉は、これを最も重要な工程と考えています。目を引くのは細部ですが、その出来は、作品の骨格と深さを決めるずっと早い段階での判断にかかっています。彫り進めるにつれて下絵は消えていくため、それを頭にとどめ、変わってゆく面に描き直していかなければなりません。

《日米の架け橋》の重なりを彫り込む三代南部白雲
02 — 深彫りと透かし

奥行きをつくり、木を透かす

透かし深彫りでは、作り手は材の奥へ、さらに向こう側へと彫り抜き、両面から見ることのできる層を重ねていきます。枝が鳥の手前をよぎり、その奥に遠くの木の葉がのぞく。透かした部分を通る部屋の光もまた、構図の一部となります。

繊細な部分は、つなぎと呼ばれる仮の木の橋で支えることがあります。つなぎは彫りが進むあいだ残しておき、支えが要らなくなった時点で取り除きます。完成した作品にこの仕組みは見えませんが、それなしには作品は生まれませんでした。

細いノミで等身大の肖像彫刻の目元を整える木村正和
03 — ノミ跡の肌

ノミ跡を残す

形が定まってくるにつれ、道具はより細くなり、手の運びはいっそう緻密になります。伝統的なノミ仕上げでは、最終的な表面を刃先が直接つくり出します。ノミ跡のわずかな面が光をとらえ、作り手の判断を木のなかにとどめるのです。

300+

本のノミ

作業台で

経験を積んだ彫刻師は、幅や反り、刃の形の異なるノミを数百本もそろえることがあります。しかし、その道具が役に立つかどうかは、どう研ぎ、仕事に合わせてどう仕立てるかにかかっています。刃を整え、手入れが必要な時を見極めることを覚えるのは、彫ることを覚えるのと切り離せません。それは弟子が最初に教わることのひとつでもあります。

使い込まれた木箱に並ぶ彫刻ノミ。柄の上に鋼の刃がのぞく
作業台のノミ。

5+

年以上の修業

04修業

師匠のそばで

こうしたことは、どれも本から学べるものではありません。井波の職人技の核にあるのは、厳格な師弟制度です。伝統的に、井波彫刻師になるには、工房を構える師匠のもとで少なくとも5年の修業が必要とされ、それ以上かかる人も少なくありません。

伝承

この技は、文字に書かれた教えによって伝えられるものではありません。工房に身を置き、師匠や兄弟子の仕事ぶりを見ながら、道具の持ち方、木目の読み方、ノミの研ぎ方、深さの見極め方、そして木が思わぬ反応を見せたときの対処を、身をもって吸収していくのです。描くこともまた、師匠の手で図案が形をなしていくのを見て覚えます。

師匠から弟子へと伝わるのは暗黙知、つまり言葉にできるようになる前に、まず手に宿る知です。説明はほとんどなく、手引き書もありません。弟子は仕事のすぐそばに身を置き、絶えず手を動かし、試行錯誤を重ねながら、判断と技がひとつの動きになるまで学んでいきます。井波は、このものづくりの原則をかたく守ってきました。説明されるのではなく体で覚える技、すなわち「考える手」です。

修業は工房での暮らしの基本から始まり、一歩ずつ、より難しい彫りへと進んでいきます。

作業台に向かう年長の彫刻師の後ろ姿。奥では他の彫刻師たちもそれぞれの台に向かっている
井波の工房にて。

一つ屋根の下で

伝統的に、弟子は師匠の家に住み込み、家族と同じ食卓を囲み、家事も分担して、工房の一員であると同時に家族の一員となりました。最初の数か月は刃物研ぎを覚えることに費やされ、最初の手ほどきは、師匠本人よりも兄弟子から受けることが多かったのです。

井波彫刻協同組合の規定では、修業期間は5年で、年季明けには修了証が授与されます。慣例として、多くの弟子はさらに1、2年、師匠のもとでお礼奉公を務めてから独立します。

職業訓練校の授業に通い、書道や建築などの知識を広げた弟子もいました。授業は日曜日に開かれることもありましたが、学びの中心はあくまで工房でした。

工房の窓越しに見える、作業台で小さな彫刻に身をかがめる若い彫刻師
井波の工房での仕事風景。

生涯の研鑽

5年は土台にすぎません。長年の学びと、師匠の家で世話になった歳月を経て、やがて自らの工房を構え、独り立ちする時が訪れます。

新しい依頼は未知の課題をもたらし、難しい仕事ほど深い判断が求められます。先人の仕事に学び、技法を試し、失敗を重ねながら、技は職人としての生涯を通じて深まり続けます。数十年の経験をもつ職人でさえ、学び、変わり続けているのです。

05時代の転換

装飾なき世界

変わりゆく日本

日本で洋風の住宅や規格化された工法が広まるにつれ、和室と、それに伴う多くの建築要素は、暮らしの中心から遠ざかっていきました。建築やデザインのモダニズムは機能主義と規格化を重んじ、装飾に背を向けました。新築の住宅に欄間が設けられることはしだいに少なくなり、需要は急激に落ち込みました。

しかし、変化は欄間だけにとどまりませんでした。工業化と機械生産、そして世界規模のサプライチェーンによって、規格品はより早く、より安く作られるようになり、高度な技を要する装飾工芸がかつて日々の暮らしのなかで占めていた場所は、少しずつ失われていきました。

それが技にもたらしたもの

師匠は、理屈だけで次の世代を育てることはできません。

修業は実際の仕事があってこそ成り立ちます。本物の材を手にし、実際に失敗し、現実の注文に応えながら、長い年月をかけて実地に学んでいくのです。注文が細れば、それによって可能になる修業もまた細っていきます。

存続

工業化と大量生産によって数多くの装飾工芸の伝統が姿を消していったなかで、それでも井波は途絶えませんでした。

その粘り強さの根底にあるのが、職人の心構えです。職人とは、技を磨き、仕事を進化させ続けることに打ち込む人々のこと。職人がまず忠実であろうとするのは仕事そのもの、すなわち生涯をかけて磨き上げ、欠けるところなく次へ手渡す技です。需要が落ち込んだとき、井波の工房は店をたたむのではなく、変化に適応する道を選びました。

培われた技に新たな場を

井波の作り手たちは、新しい種類の建物や依頼主に向けた仕事を生み出し続け、その知識を彫刻作品、家具、看板、修復、そして現代建築の仕事へと広げてきました。彫刻板はそれ自体ひとつの独立した作品として構想することもできますし、装飾が扉や家具、そのほかの室内の要素の一部となることもあります。

新しい場に向き合うたびに、彫刻師は大きさや構図、作品と周囲との関係を考え直すことになります。題材は、その場所の個性や組織の理念、あるいは持ち主にとって個人的に大切なものから生まれることもあります。かつて寺社の彫刻を住まいに合わせて生かした知識が、いまも、異なる大きさや用途、暮らし方をもつ空間に新たな可能性を開き続けています。

透かし彫りの板を彫る野村光雄。手前にノミを並べたトレー、背後に彫刻板
井波の工房で透かし彫りの板を彫る二代目野村清宝(野村光雄)。
木の床が張られた吹き抜けのエントランスホールに下がる、藤を彫ったシャンデリア
エントランスホールに南砺市の藤井組本社のための藤の彫刻。三代南部白雲と白雲工房。
富山県の南砺市民病院の廊下の壁に掲げられた、動物と花の大きな浮き彫り
病院に南砺市民病院の廊下のための浮き彫り。土田信久。

現代の課題

しかし、適応だけで未来が約束されるわけではありません。井波の熟練した職人の多くは高齢化しつつあります。厳しい修業の道に入る若者は比較的少なく、今日の国内需要だけでは、これまでと同じ深さの修業を次の世代にわたって支えることはできません。

問われているのは、次の世代が彫り続けていけるだけの、意義ある仕事があるかどうかです。

06海外へ

太平洋を越えて

1904

明治・大正時代

万国博覧会

井波の彫刻師が海外に目を向けたのは、これが初めてではありません。明治から大正にかけて、彼らは各地の博覧会や万国博覧会に出品し、記録によれば、その作品はアメリカで開かれた万国博覧会の日本出品作のなかにもありました。井波彫刻協同組合の記録には、1904年にセントルイスで開かれたルイジアナ購入記念万国博覧会で初代加茂辰蔵が名誉賞を受けたとあり、また大島五雲は、1915年にサンフランシスコで開かれたパナマ太平洋万国博覧会で名誉金賞を受けたと伝えられています。

しかし、浮世絵のような日本の美術が広く海を渡り、世界の芸術家に影響を与えた一方で、井波は海外ではあまり知られないままでした。その一因は、記念碑的な建築彫刻が、木版画のように小さく持ち運びやすい作品に比べて、輸送も展示もはるかに難しかったことにあったと考えられます。そのため近代の大半を通じて、この伝統は主に国内の注文によって発展してきました。

2025

世界へ向けた新たな章

それから1世紀あまりを経て、その状況が変わり始めています。

2025年、Poiesisと井波彫刻師・三代南部白雲は、公開実演、講演、ドキュメンタリーの上映、作品展示、一般向けのプログラムを通じて、アメリカ各地の大学や美術館・博物館、文化施設、公共の場に井波彫刻を届けました。

人々が出会ったのは、完成した彫刻だけではありません。その背後にある伝統――道具、修業、判断、そして一つの作品が生まれるまでに費やされる時間にも触れたのです。

2025年の米国巡回展を詳しく見る

巡回展で初上映された『木に宿る声』

花の木炭画を掲げる三代南部白雲と、その絵から彫られた作品を見せるカリム・サルジ
ジャパン・ハウス ロサンゼルス、2025年。木炭で描いた下絵と、そこから彫られた作品。
スミソニアンで、来場者が初めてノミを入れるのを手ほどきする三代南部白雲
スミソニアン国立アジア美術館(ワシントンD.C.)、2025年。

2026

後世に残るもの

この旅は、より永く残るものを生み出すきっかけにもなりました。

谷口草雲が1981年、金沢・兼六園のかたわらにあった料亭「兼見御亭(けんけんおちん)」のために彫った7点の欄間が、フロリダ州デルレイビーチのモリカミ博物館・日本庭園に寄贈されることになりました。同館はこれらを収蔵品として受け入れることに同意しています。料亭は2019年に閉店し、建物はその後取り壊されました。

下絵や記録資料とともに保存されることで、これらの作品は、それが作られた建築が失われたのちも、長く人々の目に触れ、研究され続けることができます。

欄間7点をモリカミへ寄贈

谷口草雲《根上松を含む景観》。中央に大きな松、そのまわりに庭の建物と流れを彫った横長の欄間
《根上松を含む景観》、谷口草雲、1981年。7点のうちの1点。

現在

いまの井波

とはいえ、井波にとって国際的な評価は目的地ではありません。より深いねらいは、新たなつながりと新たな仕事を通じて、伝統を続けていくことにあります。

Poiesisは井波の彫刻の担い手たちと協力しながら、彫刻師たちを、コレクター、建築家、デザイナー、美術館・博物館、文化機関など、海外でこの技に新たな機会をもたらしうる人々と結びつけています。

いま町を歩けば、希望が失われていないことがわかります。工房からはいまもノミの音が聞こえ、弟子たちはいまも学んでいます。三四郎が井波の大工たちに技を伝えてから250年あまり。受け継がれた知恵は、いまここで仕事をする人々の手のなかに生き続けています。

青い作業着に手袋姿の土田信久が、ノミの並ぶ作業台で木塊にノミを打ち込む。窓辺には小さな彫像
井波の工房で仕事をする土田信久。

07いまに生きる伝統

次の章は、いままさに綴られている

井波の物語は続いています。そしてそれは、町だけで書き進められる物語ではありません。

コレクター、建築家、デザイナー、さまざまな機関、そして卓越した手仕事の価値を信じるすべての方を、この物語にお迎えしたいと願っています。ともに、井波を次の世代へとつないでいきましょう。

まずは、いまこの伝統を担う彫刻師たちを知ることから。あるいは、ご自身のための一作から。

机に向かい、図案を描く熟練の彫刻師
明るい空を背に、彫刻で飾られた瑞泉寺の屋根の破風

井波 · 富山 · 日本

井波彫刻

250年以上にわたり、この門前町の彫刻師たちは、人々が祈り、集い、暮らす場所の一部となる作品を木から彫り出してきました。

井波・瑞泉寺

01起源

町の中心にある寺

石畳の八日町通りは、井波の町なかを抜けて瑞泉寺の門前へと続いています。参道には彫刻工房が軒を連ね、いまの仕事は、それを育んできた寺から歩いてすぐのところで営まれています。600年以上にわたり、瑞泉寺は井波彫刻を生み育てた人々と注文、そして知識をこの地に呼び寄せてきました。町の物語は、この寺から始まります。

冬の八日町通り。彫刻工房の屋根に積もる雪、通り沿いの灯り、その向こうの山並み
冬の八日町通り。瑞泉寺へと続く通りに、彫刻工房が軒を連ねています。
杉木立に囲まれ、二重の屋根を戴く瑞泉寺の太子堂

通りの突き当たりに建つ瑞泉寺の太子堂。

1390

門前町のはじまり

瑞泉寺は1390年、本願寺第5代綽如上人によって、京都の本願寺の別院として創建されました。創建当初から、富山の山あいにあるこの町は都と結ばれ、京都の文化がいち早く井波にもたらされました。その後、本願寺第8代蓮如上人の北陸布教によって瑞泉寺は急速に寺勢を広げ、勝興寺と並んで、越中における浄土真宗の二大拠点の一つとなりました。

町は寺の門前に開けました。信仰の中心である瑞泉寺のまわりには人々が集まり、壮大な木造の堂宇を建て、守り続ける務めが、宮大工が井波に根を下ろす礎となったのです。彼らの腕はほどなく瑞泉寺を越え、地域各地の寺社でも振るわれるようになります。やがて大工の家々は町に仕事場を構え、大規模な木造建築を建てるための知識と、新たな仕事を呼び込む人とのつながりとを、ともに受け継いでいきました。

瑞泉寺の式台門。黄色い塀のあいだに建つ、曲線を描く屋根に彫刻をめぐらせた門
瑞泉寺の格式ある門、式台門。1792年、唐破風の屋根を戴く姿で再建されました。勅使門の名でも知られ、また扉の上に掲げた金色の菊の御紋から菊の門とも呼ばれます。
瑞泉寺式台門の中央の部材に彫られた獏と、その下の金色の菊の飾り金具
式台門の中央、金色の菊の飾り金具の上の部材に彫られた獏。悪い夢を食べるとされる霊獣で、守護の象徴です。

1581

焼失と再建

戦国時代、瑞泉寺の門徒たちは信仰を守るため、武士の支配に抗して戦いました。1581年、寺は織田信長の配下として越中を治めていた佐々成政の軍勢によって焼き払われます。その後、寺は現在の高台の地に再興され、再建のために大工たちが集まりました。やがてこの地を治めた加賀藩前田家のもとで、井波は、藩の普請と領内の寺社建築の双方に技を尽くす宮大工の町へと発展していきました。

1594年、前田家は、守山城の普請をはじめとする働きへの褒美として、10人の大工に屋敷地を与えました。技をもって奉公する見返りに諸役を免除された彼らは「井波拝領地大工」と呼ばれ、4人の鍛冶も同じ特権を受けています。その仕事場は、のちに町の彫刻が形をなしていく建築の伝統の礎となりました。そのなかの一家が番匠屋(田村家)です。番匠屋は江戸から明治を通じてその地位を保ち、やがて大工から彫刻へと家業を転じていきました。

1760年代

町の大工たちの新たな道

瑞泉寺境内の木立に立つ、彫刻道具を手にした前川三四郎の像
瑞泉寺境内に立つ前川三四郎像。

1760年代、大火によって寺はふたたび焼失し、その再建のために京都から職人たちが井波へやって来ました。本山の東本願寺はお抱えの棟梁を差し向けて再建を指揮させ、京都の彫物師たちもこれに同行しました。

そのなかに、彫物師・前川三四郎がいました。地元の伝承によれば、三四郎は町の大工4人に高度な彫刻の技を伝えたといいます。1774年に本堂が再建されたとき、その彫刻を手がけたのは京都の職人たちでした。牡丹と龍は清水安之丞、雲間の天人は三四郎の作です。しかし井波の大工たちも彼らと並んで働き、建てながら学んでいました。番匠屋の記録は、9代目の七左衛門が三四郎に彫刻を学んだと伝え、この七左衛門を「井波彫刻ノ元祖」としています。

京都の棟梁たちが帰洛したのは、1791年になってからのことです。そのころには七左衛門は、自ら仕事を率いるようになっていました。棟梁として本堂内の宮殿を完成させ、京都の棟梁の一人から相伝書を授かっています。1792年には、式台門の小脇板に「獅子の子落とし」を彫り上げました。

井波の大工たちが学んだものは、すでに建築の技に富んでいたこの町に根づきました。知識が仕事場から仕事場へと伝わるにつれて、彫刻はしだいに独立した専門の仕事となり、今日、井波の名を冠して知られる伝統の礎が築かれていきました。

1805

大工の仕事場から彫刻師の町へ

1805年、井波の棟梁・松井角平のもとで、瑞泉寺の壮大な山門が完成しました。寺の記録は、その龍と波を前川三四郎の作としています。三四郎とともに井波の職人たちも腕をふるい、門の正面に並ぶ仙人は岩倉理八が、小脇板や唐戸は地元のほかの職人たちが手がけました。この山門は、井波の大工が初めて彫刻の腕を認められるきっかけとなった仕事として記憶されています。

江戸時代、建築彫刻は、寺社を建て、修理する宮大工の仕事のなかで、しだいに専門化していきました。それを専らとする者は彫物大工と呼ばれました。井波では、彼らの仕事がやがてそれだけで身を立てられる生業となり、地元の記録には、町の大工と並んで、1806年に2人、1810年に7人の彫物師が記されています。同じ1810年には、加賀藩が井波の彫物師を藩の造営の御用に召し出しました。寺社からの注文は続き、さらに祭りの曳山や屋台が、別の種類の仕事をもたらしました。通りに集まる群衆に向けて彫られる龍や獅子、伝説の場面です。こうして仕事場は数を増していきます。弟子たちは一人前の職人のもとで修業を積んで独立し、やがて自らも弟子をとり、町はいよいよ彫刻の町として知られるようになりました。

反りの大きな屋根の下に彫刻をめぐらせた、瑞泉寺の二層の山門
1805年に完成した瑞泉寺の山門。三四郎の龍は、門の内側、扉の上に彫られています。
瑞泉寺山門の上に彫られた、雲と波のなかの龍

前川三四郎 · 瑞泉寺

《雲水一疋龍》

三四郎作と伝わる龍は、いまも瑞泉寺の山門を見守っています。1879年、寺がふたたび火災に見舞われたとき、山門は焼失を免れました。地元には、この龍が門を抜け出して井戸の水を吸い上げ、火を消し止めるのを助けたという言い伝えが残っています。

この言い伝えは、いまや寺と切り離せない存在となったこの彫刻が、どれほど人々に慕われてきたかを物語っています。

生きた教科書

その後継者たちは、今日彫刻師と呼ばれています。建築に根ざした伝統を受け継ぎながら、はるかに幅広い分野で制作する木彫の作り手たちです。彼らにとって瑞泉寺は、いまも生きた教科書です。構図がまとまらないとき、新たな着想が欲しいとき、彼らはいまでも寺まで歩いて行き、その彫刻に学ぶことができます。そこには、目を凝らせば誰にでも見てとれる形で、幾世代にもわたる経験が刻まれています。

瑞泉寺式台門の、風雨にさらされた柱の脇の縦長の彫刻板。滝の上の崖に立つ獅子と、谷底の子獅子
番匠屋七左衛門が瑞泉寺式台門のために彫った「獅子の子落とし」。1792年。

02欄間

住まいに彫刻を

井波の彫刻師が手がけてきた数々のかたちのなかで、町と最も深く結びついているのが欄間です。彫刻欄間では、鴨居の上の細長い板が、ひとつの風景にも、花咲く枝にも、部屋の幅いっぱいに繰り広げられる情景にもなります。

透かし彫りの欄間は、隣り合う部屋のあいだに光と風を通します。見る位置や光の移ろいによって、その彫りの深さと細部が少しずつ姿を現します。

開け放たれた堂の扉の上に並ぶ彫刻欄間
寺院の欄間大きく、彫りは深く大胆。はるか下から見上げられることを前提に作られます。
襖の上に彫刻欄間がはめ込まれた和室
住まいの欄間より軽やかで開放的。部屋の大きさに合わせて作られます。

明治

明治時代(1868〜1912年)

住まいの寸法へ

欄間はもともと寺社のもので、多くは大きく重厚な造りでした。壮大な建築のために作られたそれらは、民家の小さな空間には不釣り合いなものでした。

明治時代、井波の名工・大島五雲は、欄間を住まいのためにとらえ直し、より優雅で繊細な、見た目にも軽やかな作品を生み出しました。余白を広くとることで、欄間は住まいのこぢんまりとした空間に自然になじむようになったのです。

五雲の弟子のひとりに、初代南部白雲がいます。白雲は、この新しい流れを推し進めた同時代の職人たちのひとりとして余白の生かし方を磨き、井波に住まいのための新しい彫刻の時代を築く一翼を担いました。いまの言葉でいえば、一種の商品開発です。長く培われてきた知識を、新たな建築の場に合わせて生かしたのです。

こうした欄間の多くは、家が客を迎える座敷のために作られました。そこに掲げられる彫刻は、もてなしの心や主人の好み、家の行く末への願いを表すことができ、彫刻師は、一家が住まいを世にどう示すかに一役買うことになりました。

二つの部屋から見る構図

欄間の多くは2枚一組で作られ、それぞれの板は表裏の両面に彫刻が施されました。裏面は表と呼応することもあれば、表を別の解釈で描き直すことも、まったく別の題材を見せることもあります。作り手は両側からの眺めを思い描きながら、作品全体の強度を保たなければなりませんでした。

ここに、透かし彫りならではの難しさがあります。絵画のように、何もない空に鳥をただ浮かべることはできません。枝や雲などで鳥をまわりの材とつなぎ、彫刻全体を支えながら、それらが情景の一部として自然に見えなければならないのです。

こちらの部屋

一対の欄間の1枚目、表面。葦と渦巻く水の上を飛ぶ雁
一対の欄間の2枚目、表面

隣の部屋

一対の欄間の1枚目、裏面。隣の部屋に向けて彫られた同じ情景
一対の欄間の2枚目、裏面。隣の部屋に向けて左右を反転させた、葦と渦巻く水の上を飛ぶ雁

一対の彫刻欄間。葦と渦巻く水の上を飛ぶ雁を両面に彫り、どちらの部屋にもそれぞれの構図が見えるようにしています。《葦に雁》。松永正行(生没年不詳)、明治前期、19世紀後半。イチイ材。個人蔵。

欄間の枠の上、渦巻く水から伸び上がる葦の彫刻(拡大)
部分。渦巻く水から伸び上がる葦。
欄間の枠の下を飛ぶ2羽の雁の彫刻(拡大)
部分。枠の下を飛ぶ雁。

木に刻まれた家の物語

ある種の題材は、家の者にも客にも読み取れる意味を帯びていました。松竹梅は風雪に耐える強さと吉祥を、鶴は長寿を表し、風景は思い入れのある土地を偲ばせることもありました。こうしたなじみ深い画題に加え、依頼主ならではのもの――故郷、家族の思い出、個人的な縁のある題材――から始まる注文もありました。

彫刻師の務めは、こうした思いをひとつのまとまった図案へと描き上げることでした。すぐれた欄間は、作り手の腕を示すだけでなく、その部屋と、そこに暮らす人々にふさわしいものでなければならなかったのです。

雲間を飛ぶ鶴を描いた、欄間のための横長の墨の下絵。両端に書き込みがあるその下絵から彫られた欄間。濃色の漆塗りの枠に収まる、雲間を飛ぶ鶴
下絵彫刻
ある家の欄間のための下絵と、それをもとに彫られた欄間。下絵には1925年10月の日付と寸法が書き込まれています。
年配の男性が見守るなか、和室の鴨居の上に彫刻欄間をはめ込む2人の男性
完成した欄間国内の住宅への取り付けの様子。

戦後

繁栄の時代

第二次世界大戦後の数十年間、経済成長と住宅の新築が進むなかで、井波彫刻の需要は、とりわけ地元・北陸で高まっていきました。座敷の彫刻欄間や玄関の衝立は、その家の繁栄と、住まいへの誇りを表すものとなったのです。

客を迎える部屋を飾ったこれらの作品は、家の人づきあいのなかに職人の技の居場所をつくりました。一つひとつの注文は施主の好みを映し出すと同時に、この技に何ができるかを人々に示すものでもありました。

最盛期

300

この需要によって、井波の工房は多くの職人と弟子を抱えることができました。最盛期には、弟子や組合に属さない職人も含めて約300人がこの仕事に携わり、その営みは、彫刻工房と生業で結びついた材木商や製材業者、道具鍛冶の暮らしをも支えていました。

縦長の木の板に彫られた、雲を突いて昇る龍

03技法

引き算の技

欄間は井波の技を多くの家庭に届けましたが、この町の作り手たちは、いつの時代もより幅広い分野で仕事をしてきました。寺社の装飾、祭りの彫刻、仏像、看板、家具、修復、そして独立した美術作品。そのいずれにも、大きさ、素材、意味をめぐる固有の課題があります。

依頼の多くは、作品が置かれる場所や、それを受け取る人、あるいは共同体についての対話から始まります。彫刻師はそこから下絵を練り、題材を立体の構想へと変えていきます。何を手前に浮かび上がらせ、何を奥へ退かせるか。光をどこに通すか。完成した形を木がどう支えるか。そこから先は、すべてが削り取ることの積み重ねです。

龍の彫刻板、井波。

縦長の木の板に彫られた、渦巻く雲の下へ降りてくる龍

下絵の机で

作り手はまずスケッチで題材を探り、さまざまな構成を試してから、原寸下絵に取りかかります。完成作と同じ大きさで描くことで、構図のつり合い、置かれる場所との関係、そして形と形をつなぎとめる接点を見極めることができます。

この段階で、彫刻の大部分はすでに考え抜かれています。平面の図案が立体へと変わっても保たれなければならない関係を、下絵が定めるのです。もっとも、作り手はその後も材に応じて手を加え続けます。

古代エジプトのワインづくりに着想を得た、ワインセラーの彫刻のための鉛筆スケッチ。3枚のパネルにわたって、ぶどうの蔓の下で人々がぶどうを摘み、運び、踏んでいる
スケッチ古代エジプトのワインづくりに着想を得た、ワインセラーの彫刻のためのスケッチ。まだ原寸に描き起こして和紙に写す前の段階です。
作業台いっぱいに原寸下絵を広げる彫刻師
原寸下絵作業台に広げた、和紙の原寸下絵。
全体を広げた墨の原寸下絵。神社のかたわらの老松、石灯籠、笹など、名古屋の風景
下絵の全体同じ下絵の全体。故郷を彫刻に表したいという依頼主のために描かれた、名古屋の風景。

木の個性

彫り始める前に、職人はその作品にふさわしい材を選びます。木目や重さ、ノミへの応え方が、大きな形からごく細かな部分に至るまで、構図を左右します。

井波の欄間や装飾彫刻には、楠(くすのき)が広く用いられます。色合いや独特の香り、彫りやすさが重んじられ、こうした作品を埋めつくす入り組んだ枝や羽根、幾重にも重なる風景を彫るのに向いています。

依頼が違えば、求められる性質も違います。欅は木目の美しさが珍重され、彫像や建築彫刻に用いられます。檜は仏像などの宗教的な作品に、軽い桐は、祭りで担いだりかぶったりする獅子頭に特に適しています。依頼によっては、職人は世界各地の木を単独で、あるいは組み合わせて用い、その自然な色や木目、質感を生かすこともあります。

樹種を選ぶのは始まりにすぎません。材は入念に乾燥させなければならず、どの一本にもそれぞれの可能性と制約があります。木目がどこで向きを変えるか、細い形のどこに支えが要るか、刃を入れたときに木がどう応えるか――それは、彫刻師が生涯をかけて蓄えていく知識です。

丸太の木口。芯から広がる年輪と節
獅子の木地に描かれた線に沿ってノミを入れる土田信久。傍らに下絵
01 — 荒彫り

形を定める

図案を木に写したら、切り出しと荒彫りによって主な形をつくります。幅の広い刃物と槌で材を落とし、そこから構図が立ち上がってくる彫りの高低を定めていきます。

岩倉綾泉は、これを最も重要な工程と考えています。目を引くのは細部ですが、その出来は、作品の骨格と深さを決めるずっと早い段階での判断にかかっています。彫り進めるにつれて下絵は消えていくため、それを頭にとどめ、変わってゆく面に描き直していかなければなりません。

《日米の架け橋》の重なりを彫り込む三代南部白雲
02 — 深彫りと透かし

奥行きをつくり、木を透かす

透かし深彫りでは、作り手は材の奥へ、さらに向こう側へと彫り抜き、両面から見ることのできる層を重ねていきます。枝が鳥の手前をよぎり、その奥に遠くの木の葉がのぞく。透かした部分を通る部屋の光もまた、構図の一部となります。

繊細な部分は、つなぎと呼ばれる仮の木の橋で支えることがあります。つなぎは彫りが進むあいだ残しておき、支えが要らなくなった時点で取り除きます。完成した作品にこの仕組みは見えませんが、それなしには作品は生まれませんでした。

細いノミで等身大の肖像彫刻の目元を整える木村正和
03 — ノミ跡の肌

ノミ跡を残す

形が定まってくるにつれ、道具はより細くなり、手の運びはいっそう緻密になります。伝統的なノミ仕上げでは、最終的な表面を刃先が直接つくり出します。ノミ跡のわずかな面が光をとらえ、作り手の判断を木のなかにとどめるのです。

300+

本のノミ

作業台で

経験を積んだ彫刻師は、幅や反り、刃の形の異なるノミを数百本もそろえることがあります。しかし、その道具が役に立つかどうかは、どう研ぎ、仕事に合わせてどう仕立てるかにかかっています。刃を整え、手入れが必要な時を見極めることを覚えるのは、彫ることを覚えるのと切り離せません。それは弟子が最初に教わることのひとつでもあります。

使い込まれた木箱に並ぶ彫刻ノミ。柄の上に鋼の刃がのぞく
作業台のノミ。

5+

年以上の修業

04修業

師匠のそばで

こうしたことは、どれも本から学べるものではありません。井波の職人技の核にあるのは、厳格な師弟制度です。伝統的に、井波彫刻師になるには、工房を構える師匠のもとで少なくとも5年の修業が必要とされ、それ以上かかる人も少なくありません。

伝承

この技は、文字に書かれた教えによって伝えられるものではありません。工房に身を置き、師匠や兄弟子の仕事ぶりを見ながら、道具の持ち方、木目の読み方、ノミの研ぎ方、深さの見極め方、そして木が思わぬ反応を見せたときの対処を、身をもって吸収していくのです。描くこともまた、師匠の手で図案が形をなしていくのを見て覚えます。

師匠から弟子へと伝わるのは暗黙知、つまり言葉にできるようになる前に、まず手に宿る知です。説明はほとんどなく、手引き書もありません。弟子は仕事のすぐそばに身を置き、絶えず手を動かし、試行錯誤を重ねながら、判断と技がひとつの動きになるまで学んでいきます。井波は、このものづくりの原則をかたく守ってきました。説明されるのではなく体で覚える技、すなわち「考える手」です。

修業は工房での暮らしの基本から始まり、一歩ずつ、より難しい彫りへと進んでいきます。

作業台に向かう年長の彫刻師の後ろ姿。奥では他の彫刻師たちもそれぞれの台に向かっている
井波の工房にて。

一つ屋根の下で

伝統的に、弟子は師匠の家に住み込み、家族と同じ食卓を囲み、家事も分担して、工房の一員であると同時に家族の一員となりました。最初の数か月は刃物研ぎを覚えることに費やされ、最初の手ほどきは、師匠本人よりも兄弟子から受けることが多かったのです。

井波彫刻協同組合の規定では、修業期間は5年で、年季明けには修了証が授与されます。慣例として、多くの弟子はさらに1、2年、師匠のもとでお礼奉公を務めてから独立します。

職業訓練校の授業に通い、書道や建築などの知識を広げた弟子もいました。授業は日曜日に開かれることもありましたが、学びの中心はあくまで工房でした。

工房の窓越しに見える、作業台で小さな彫刻に身をかがめる若い彫刻師
井波の工房での仕事風景。

生涯の研鑽

5年は土台にすぎません。長年の学びと、師匠の家で世話になった歳月を経て、やがて自らの工房を構え、独り立ちする時が訪れます。

新しい依頼は未知の課題をもたらし、難しい仕事ほど深い判断が求められます。先人の仕事に学び、技法を試し、失敗を重ねながら、技は職人としての生涯を通じて深まり続けます。数十年の経験をもつ職人でさえ、学び、変わり続けているのです。

05時代の転換

装飾なき世界

変わりゆく日本

日本で洋風の住宅や規格化された工法が広まるにつれ、和室と、それに伴う多くの建築要素は、暮らしの中心から遠ざかっていきました。建築やデザインのモダニズムは機能主義と規格化を重んじ、装飾に背を向けました。新築の住宅に欄間が設けられることはしだいに少なくなり、需要は急激に落ち込みました。

しかし、変化は欄間だけにとどまりませんでした。工業化と機械生産、そして世界規模のサプライチェーンによって、規格品はより早く、より安く作られるようになり、高度な技を要する装飾工芸がかつて日々の暮らしのなかで占めていた場所は、少しずつ失われていきました。

それが技にもたらしたもの

師匠は、理屈だけで次の世代を育てることはできません。

修業は実際の仕事があってこそ成り立ちます。本物の材を手にし、実際に失敗し、現実の注文に応えながら、長い年月をかけて実地に学んでいくのです。注文が細れば、それによって可能になる修業もまた細っていきます。

存続

工業化と大量生産によって数多くの装飾工芸の伝統が姿を消していったなかで、それでも井波は途絶えませんでした。

その粘り強さの根底にあるのが、職人の心構えです。職人とは、技を磨き、仕事を進化させ続けることに打ち込む人々のこと。職人がまず忠実であろうとするのは仕事そのもの、すなわち生涯をかけて磨き上げ、欠けるところなく次へ手渡す技です。需要が落ち込んだとき、井波の工房は店をたたむのではなく、変化に適応する道を選びました。

培われた技に新たな場を

井波の作り手たちは、新しい種類の建物や依頼主に向けた仕事を生み出し続け、その知識を彫刻作品、家具、看板、修復、そして現代建築の仕事へと広げてきました。彫刻板はそれ自体ひとつの独立した作品として構想することもできますし、装飾が扉や家具、そのほかの室内の要素の一部となることもあります。

新しい場に向き合うたびに、彫刻師は大きさや構図、作品と周囲との関係を考え直すことになります。題材は、その場所の個性や組織の理念、あるいは持ち主にとって個人的に大切なものから生まれることもあります。かつて寺社の彫刻を住まいに合わせて生かした知識が、いまも、異なる大きさや用途、暮らし方をもつ空間に新たな可能性を開き続けています。

透かし彫りの板を彫る野村光雄。手前にノミを並べたトレー、背後に彫刻板
井波の工房で透かし彫りの板を彫る二代目野村清宝(野村光雄)。
木の床が張られた吹き抜けのエントランスホールに下がる、藤を彫ったシャンデリア
エントランスホールに南砺市の藤井組本社のための藤の彫刻。三代南部白雲と白雲工房。
富山県の南砺市民病院の廊下の壁に掲げられた、動物と花の大きな浮き彫り
病院に南砺市民病院の廊下のための浮き彫り。土田信久。

現代の課題

しかし、適応だけで未来が約束されるわけではありません。井波の熟練した職人の多くは高齢化しつつあります。厳しい修業の道に入る若者は比較的少なく、今日の国内需要だけでは、これまでと同じ深さの修業を次の世代にわたって支えることはできません。

問われているのは、次の世代が彫り続けていけるだけの、意義ある仕事があるかどうかです。

06海外へ

太平洋を越えて

1904

明治・大正時代

万国博覧会

井波の彫刻師が海外に目を向けたのは、これが初めてではありません。明治から大正にかけて、彼らは各地の博覧会や万国博覧会に出品し、記録によれば、その作品はアメリカで開かれた万国博覧会の日本出品作のなかにもありました。井波彫刻協同組合の記録には、1904年にセントルイスで開かれたルイジアナ購入記念万国博覧会で初代加茂辰蔵が名誉賞を受けたとあり、また大島五雲は、1915年にサンフランシスコで開かれたパナマ太平洋万国博覧会で名誉金賞を受けたと伝えられています。

しかし、浮世絵のような日本の美術が広く海を渡り、世界の芸術家に影響を与えた一方で、井波は海外ではあまり知られないままでした。その一因は、記念碑的な建築彫刻が、木版画のように小さく持ち運びやすい作品に比べて、輸送も展示もはるかに難しかったことにあったと考えられます。そのため近代の大半を通じて、この伝統は主に国内の注文によって発展してきました。

2025

世界へ向けた新たな章

それから1世紀あまりを経て、その状況が変わり始めています。

2025年、Poiesisと井波彫刻師・三代南部白雲は、公開実演、講演、ドキュメンタリーの上映、作品展示、一般向けのプログラムを通じて、アメリカ各地の大学や美術館・博物館、文化施設、公共の場に井波彫刻を届けました。

人々が出会ったのは、完成した彫刻だけではありません。その背後にある伝統――道具、修業、判断、そして一つの作品が生まれるまでに費やされる時間にも触れたのです。

2025年の米国巡回展を詳しく見る

巡回展で初上映された『木に宿る声』

花の木炭画を掲げる三代南部白雲と、その絵から彫られた作品を見せるカリム・サルジ
ジャパン・ハウス ロサンゼルス、2025年。木炭で描いた下絵と、そこから彫られた作品。
スミソニアンで、来場者が初めてノミを入れるのを手ほどきする三代南部白雲
スミソニアン国立アジア美術館(ワシントンD.C.)、2025年。

2026

後世に残るもの

この旅は、より永く残るものを生み出すきっかけにもなりました。

谷口草雲が1981年、金沢・兼六園のかたわらにあった料亭「兼見御亭(けんけんおちん)」のために彫った7点の欄間が、フロリダ州デルレイビーチのモリカミ博物館・日本庭園に寄贈されることになりました。同館はこれらを収蔵品として受け入れることに同意しています。料亭は2019年に閉店し、建物はその後取り壊されました。

下絵や記録資料とともに保存されることで、これらの作品は、それが作られた建築が失われたのちも、長く人々の目に触れ、研究され続けることができます。

欄間7点をモリカミへ寄贈

谷口草雲《根上松を含む景観》。中央に大きな松、そのまわりに庭の建物と流れを彫った横長の欄間
《根上松を含む景観》、谷口草雲、1981年。7点のうちの1点。

現在

いまの井波

とはいえ、井波にとって国際的な評価は目的地ではありません。より深いねらいは、新たなつながりと新たな仕事を通じて、伝統を続けていくことにあります。

Poiesisは井波の彫刻の担い手たちと協力しながら、彫刻師たちを、コレクター、建築家、デザイナー、美術館・博物館、文化機関など、海外でこの技に新たな機会をもたらしうる人々と結びつけています。

いま町を歩けば、希望が失われていないことがわかります。工房からはいまもノミの音が聞こえ、弟子たちはいまも学んでいます。三四郎が井波の大工たちに技を伝えてから250年あまり。受け継がれた知恵は、いまここで仕事をする人々の手のなかに生き続けています。

青い作業着に手袋姿の土田信久が、ノミの並ぶ作業台で木塊にノミを打ち込む。窓辺には小さな彫像
井波の工房で仕事をする土田信久。

07いまに生きる伝統

次の章は、いままさに綴られている

井波の物語は続いています。そしてそれは、町だけで書き進められる物語ではありません。

コレクター、建築家、デザイナー、さまざまな機関、そして卓越した手仕事の価値を信じるすべての方を、この物語にお迎えしたいと願っています。ともに、井波を次の世代へとつないでいきましょう。

まずは、いまこの伝統を担う彫刻師たちを知ることから。あるいは、ご自身のための一作から。

机に向かい、図案を描く熟練の彫刻師