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⁠ニュース

ジャーナル · 2026年

欄間7点をモリカミへ寄贈

谷口草雲が1981年に金沢の料亭のために彫った欄間7点が、フロリダ州デルレイビーチのモリカミ博物館・日本庭園へ寄贈されます

谷口草雲《根上松を含む景観》。中央に大きな松、そのまわりに庭の建物と流れを彫った横長の欄間

《根上松を含む景観》表面。谷口草雲、1981年。幅約2.82メートル。スワイプして全体をご覧ください。

40年近くにわたり、谷口草雲の彫った7点の欄間が、金沢・兼六園のそばの料亭を飾っていました。

その料亭、兼見御亭(けんけんおちん)が2019年に閉店したのちも、欄間を依頼した馬場家は7点をそろえたまま保管してきました。2026年9月、馬場家はこれらを井波彫刻協同組合に譲り渡し、組合がフロリダ州のモリカミ博物館・日本庭園に寄贈します。同館も、所蔵品として受け入れることを承諾しています。

Poiesisはこの寄贈の調整に協力しており、組合、中嶋勝彦、馬場家と谷口家、そして同館と連携しています。現在、作品の移送と今後の展示に向けた準備が進められています。

作者
谷口草雲
制作
1981年、金沢・兼見御亭のために
作品
欄間7点、最大のもので幅約2.82メートル
素材
台湾楠、厚さ約7 cm
現状
モリカミの理事会が受け入れを承認、移送準備中

1981年から2026年へ

一つの広間のために

兼見御亭は、兼六園のそばにあった料亭です。馬場吉晃は、その大広間をいっそう立派に見せようと、石川の風景を描いた並外れて長い欄間を草雲に依頼しました。その幅は広間の大きさに見合ったもので、4点の風景欄間はいずれも幅約2.82メートルにおよびます。一般の住宅の欄間よりはるかに長い寸法です。

草雲は、金沢城と琴柱灯籠、加賀・能登の寺々、兼六園の庭など、離れた場所どうしを一続きの風景に組み立て、それぞれの大きさや奥行きを調整して一枚の板に収めました。さらに2点には竹・菊・梅・蘭の四君子が、7点目には老松が彫られています。

料亭は2019年に閉店し、建物はのちに取り壊されました。馬場家は欄間を取り外して7点をそろえたまま保管し、はじめは小矢部市の建具店に、2026年には井波木彫刻工芸高等職業訓練校に預けました。

風景欄間の隅。松と城壁が彫られ、枠には作者の名が刻まれている
風景欄間の枠に刻まれた草雲の銘。
井波の訓練校の床に並べられた欄間に、身をかがめて見入る来場者たち
欄間に見入る寄贈者の馬場華幸と、谷口草雲の息子・谷口信夫。井波の訓練校、2026年9月。

7点の作品

三対の欄間と老松

厚さ約7センチの板に彫られた欄間では、手前のものほど前へせり出し、遠くの建物は奥へ退いています。光が透け、下から見上げたときに奥行きが読み取れるようにするこの手法を、「見込み」と呼びます。草雲が下絵を描いたのは各欄間の表面だけで、裏面は木の中にもう一つの風景を見出しながら、自在に彫り上げました。

7点は互いの縮尺をそろえて表示しています。それぞれ横にスワイプしてご覧ください。

黒いベレー帽をかぶり、ほほえむ谷口草雲の肖像
谷口草雲
槌を振り上げ、工房の床で長い欄間を荒彫りする谷口草雲
那谷寺の欄間の、總持寺側の端を荒彫りする草雲。1981年頃。写真は谷口信夫所蔵。

作者

谷口草雲

谷口草雲が彫刻の道に入ったのは15歳の頃。絵が上手だと言われたことがきっかけでした。井波で二代大島五雲に師事し、草雲という号は、師・五雲と同じ「雲」の字で終わります。2025年の米国巡回展でモリカミを訪れた三代南部白雲も、同じ流れをくむ彫刻師です。

息子の信夫は、父をまじめで寡黙な職人として記憶しています。草雲はとりわけ風景欄間で知られ、手本のない新しい風景の注文を好んで引き受けました。兼見御亭の欄間を彫ったのは60代のときで、しばしば夜遅くまで仕事に向かっていたといいます。展覧会のための自分の作品もつくりたいと願い、県展には3度出品しましたが、いつも注文の仕事が待っていました。

父と子

谷口信夫

「いい弟子ではなかったかもしれません。でも父は、いい息子でいさせてくれました。」

つばの広い帽子をかぶり、工房で木塊に槌でノミを打ち込む谷口信夫
工房で彫刻する谷口信夫、2024年。

これらの欄間がつくられた当時、信夫はまだ父の工房で修業中でした。主要な部分は草雲が彫り、信夫や工房の弟子たちが松や竹、梅の細部を手伝いました。那谷寺の欄間では、總持寺の上に自分が彫った松を、信夫はいまも見分けることができます。

注文仕事に追われて自らは展覧会の制作に打ち込めなかった草雲ですが、息子にその仕事を無理に手伝わせることはしませんでした。信夫には自由に自分の作品をつくらせました。やがて信夫は日展で2度の特選を受け、2026年には審査員も務めました。草雲が面と向かって息子をほめることはありませんでしたが、信夫の日展入選を誇らしげに人に話していたことを、信夫はのちに周囲から聞かされました。

2026年、欄間を送り出す準備のなかで、信夫は7点を清掃し、制作当時から残されていた同じ楠の端材で補修しました。楠には塗装が施されておらず、制作当初は白っぽかった木肌が、40年を経て深い茶色に変わっています。そのため補修した箇所は新しい木肌が白く浮き、信夫は周囲になじむよう色を整えました。

40年以上を経て7点がふたたびそろったのを目にした信夫は、「すごい仕事をしたもんです」と語りました。フロリダへ渡ることについては、「日展には出せなかったけれど、これは日展よりもっと晴れがましいことです。父もきっと喜んでいると思います」と話しています。

中嶋勝彦による谷口信夫へのインタビュー(2026年9月)より。

井波からモリカミへ

縁のはじまり

テーブルに並べた欄間の大判写真をのぞき込む、カリム・サルジ、三代南部白雲、モリカミの職員たち
モリカミのスタッフとともに欄間の大判写真を囲んで。2025年12月。

Poiesisの創設者カリム・サルジが19歳の学生として初めて井波の彫刻師たちに連絡をとったとき、最初に応えて彼を迎え入れたのが、谷口信夫でした。

2025年、橋渡し役となったのが富山県議会議員の武田慎一です。武田は信夫に、父・草雲の欄間が7点とも残っていること、馬場家が保管してきたこと、そして馬場華幸がそれらを井波彫刻協同組合に寄贈する意向であることを伝えました。信夫は欄間を確かめて父の作であることを認め、米国で保存・展示してくれる場所を探す手助けをカリムに頼みました。ここから、モリカミへの道が始まりました。武田はカリムとも面識がありました。武田が富山県の新田八朗知事に同行してプリンストン大学を訪れた折に、二人は出会っていたのです。

2025年12月、井波彫刻の米国巡回展のさなかに、カリム、中嶋勝彦、三代南部白雲がデルレイビーチのモリカミ博物館・日本庭園を訪れました。欄間の大判写真と下絵の一部を前に、作品とその来歴、そして井波の技を新たな鑑賞者にどう届けるかについて、対話が始まりました。

2026年4月、モリカミから、理事会が7点の受け入れを承認したとの正式な連絡が届きました。そして同年9月18日、井波の訓練校で、馬場家は井波彫刻協同組合への寄贈書に署名しました。この日に向けて、カリムとモリカミの代表者がビデオメッセージを寄せました。

「最後に人の心を動かすものは人の手から生まれたものではないかと、私は思っています」

馬場華幸、調印式にて。2026年9月18日。
あいさつ全文

調印式にて · 井波、2026年9月18日

井波彫刻協同組合の皆様へ。

本日は、このような大変有意義な機会をいただき、心よりお礼を申し上げます。

このたび、馬場家が長年にわたり大切に受け継ぎ、守ってまいりました井波彫刻の欄間7点を、アメリカのモリカミ美術館へ寄贈させていただくこととなりました。

この欄間は、私たち家族にとって単なる美術品ではありません。そこには、先人たちの思いがあり、彫刻を手がけた職人の技と誇りがあって、そして、この土地で受け継がれてきた日本の文化そのものだと想っております。

この欄間は昭和の時代に生まれ、平成を超え、そして令和の今まで馬場家とともに時を重ねてきました。時代が変わり、暮らしが変わり、社会が大きく変化しても、この欄間に刻まれた職人の手仕事、何一つ失われることなく今日まで残されています。

そして私たちは今、AIや機械が急速に発達する時代に生きています。これから様々なものが機械によって多く作られ、技術によって早く便利になっていくでしょう。しかし、どれほど時代が進んでも、最後に人の心を動かすものは人の手から生まれたものではないかと、私は思っています。

木に触れ、木の声を聞き、一彫り、一彫りに魂を込める。そこには機械では置き換えることのできない、職人の時間と、そして感性、人生そのものがあったのだと思います。それこそが手仕事の価値であり、井波彫刻がこれからの時代にも残り続ける理由だと思っております。

長い年月、馬場家の中で守られてきた欄間が、これから海を越え、アメリカの美術館という新たな場所で、多くの方々の目に触れることになります。

私は今回の寄贈を、一つの家の所蔵品が海外へ渡るということだけでは考えてはおりません。これは井波彫刻に携わってこられた多くの職人の皆様、そして今もこの伝統を守り、次の世代へ繋ごうとしている皆様の夢を背負って、7点の欄間が世界へ旅立つことだと思っております。

かつて日本の浮世絵が海を渡り、ゴッホやモネ、海外の芸術家たちの心を動かし、やがて世界からその価値を再発見されたように、日本には私たち日本人自身がまだ十分に気づいていない、世界に誇るべき文化や技が数多くあります。井波彫刻も、まさにその一つだと考えております。

昭和から平成へ、平成から令和へ、そして今度は日本からアメリカへ。この7点の欄間が時代も国境も超えて、次の100年へと受け継がれていく。そう考えると、今日という日は、この欄間にとって新しい歴史の始まりなのだと思います。

何十年、何百年と受け継がれてきた技術が、国境や言葉を越えて人の心を動かし、日本にはこれほど素晴らしいものがあると、世界の方々に知っていただける。もし今回の寄贈がその一歩になるのであれば、馬場家にとりましてこれほど嬉しく、誇らしいことはありません。

そして何より、これら井波彫刻を志す若い職人の皆様に、「自分たちの手は世界へ届く」「自分たちの技術は世界の人々の心を動かすことができる」、そう信じていただけるきっかけになってほしいと願っています。

今日、私たちは7点の欄間を手放すのではありません。7点の欄間に新しい未来を託します。

馬場家から世界へ、そして井波から世界へ。昭和、平成、令和へと受け継がれてきたこの欄間が、アメリカの地で新たな時を刻み、これから先も長く日本の職人の魂と井波彫刻の素晴らしさを伝え続けてくれることを心から願っております。

このご縁を結んでくださったすべての皆様に改めて深く感謝申し上げます。

ありがとうございました。

馬場華幸

株式会社見城亭 女将 · 2026年9月18日

当日のあいさつの原文です(言い直しのみ整えています)。

欄間とその下絵の後ろに4人が並び、うち2人が署名済みの書面を手にしている
署名を終えた書面と、欄間1点およびその下絵。井波、2026年9月18日。左から、富山県議会議員の武田慎一、馬場華幸、井波彫刻協同組合理事長の酒井秀哲、谷口信夫。

これから

続いていく縁

信夫は、この欄間が父をたたえるだけで終わらないことを願っています。モリカミで初めて井波彫刻に出会った人が、作品を手元に置きたい、井波を訪ねたい、彫刻を学びたいと思うかもしれない。そして彫刻師に新たな仕事が生まれてこそ、次の世代がその後に続くことができるのです。

7点の欄間は現在、フロリダへの旅立ちに向けて準備が進められています。その間、私たちはモリカミとともに、講演や彫刻の実演、井波の彫刻師たちと出会える機会など、この寄贈にちなんだ文化プログラムを計画しています。詳細は決まりしだいお知らせします。

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欄間7点をモリカミへ寄贈

谷口草雲が1981年に金沢の料亭のために彫った欄間7点が、フロリダ州デルレイビーチのモリカミ博物館・日本庭園へ寄贈されます

谷口草雲《根上松を含む景観》。中央に大きな松、そのまわりに庭の建物と流れを彫った横長の欄間

《根上松を含む景観》表面。谷口草雲、1981年。幅約2.82メートル。スワイプして全体をご覧ください。

40年近くにわたり、谷口草雲の彫った7点の欄間が、金沢・兼六園のそばの料亭を飾っていました。

その料亭、兼見御亭(けんけんおちん)が2019年に閉店したのちも、欄間を依頼した馬場家は7点をそろえたまま保管してきました。2026年9月、馬場家はこれらを井波彫刻協同組合に譲り渡し、組合がフロリダ州のモリカミ博物館・日本庭園に寄贈します。同館も、所蔵品として受け入れることを承諾しています。

Poiesisはこの寄贈の調整に協力しており、組合、中嶋勝彦、馬場家と谷口家、そして同館と連携しています。現在、作品の移送と今後の展示に向けた準備が進められています。

作者
谷口草雲
制作
1981年、金沢・兼見御亭のために
作品
欄間7点、最大のもので幅約2.82メートル
素材
台湾楠、厚さ約7 cm
現状
モリカミの理事会が受け入れを承認、移送準備中

1981年から2026年へ

一つの広間のために

兼見御亭は、兼六園のそばにあった料亭です。馬場吉晃は、その大広間をいっそう立派に見せようと、石川の風景を描いた並外れて長い欄間を草雲に依頼しました。その幅は広間の大きさに見合ったもので、4点の風景欄間はいずれも幅約2.82メートルにおよびます。一般の住宅の欄間よりはるかに長い寸法です。

草雲は、金沢城と琴柱灯籠、加賀・能登の寺々、兼六園の庭など、離れた場所どうしを一続きの風景に組み立て、それぞれの大きさや奥行きを調整して一枚の板に収めました。さらに2点には竹・菊・梅・蘭の四君子が、7点目には老松が彫られています。

料亭は2019年に閉店し、建物はのちに取り壊されました。馬場家は欄間を取り外して7点をそろえたまま保管し、はじめは小矢部市の建具店に、2026年には井波木彫刻工芸高等職業訓練校に預けました。

風景欄間の隅。松と城壁が彫られ、枠には作者の名が刻まれている
風景欄間の枠に刻まれた草雲の銘。
井波の訓練校の床に並べられた欄間に、身をかがめて見入る来場者たち
欄間に見入る寄贈者の馬場華幸と、谷口草雲の息子・谷口信夫。井波の訓練校、2026年9月。

7点の作品

三対の欄間と老松

厚さ約7センチの板に彫られた欄間では、手前のものほど前へせり出し、遠くの建物は奥へ退いています。光が透け、下から見上げたときに奥行きが読み取れるようにするこの手法を、「見込み」と呼びます。草雲が下絵を描いたのは各欄間の表面だけで、裏面は木の中にもう一つの風景を見出しながら、自在に彫り上げました。

7点は互いの縮尺をそろえて表示しています。それぞれ横にスワイプしてご覧ください。

黒いベレー帽をかぶり、ほほえむ谷口草雲の肖像
谷口草雲
槌を振り上げ、工房の床で長い欄間を荒彫りする谷口草雲
那谷寺の欄間の、總持寺側の端を荒彫りする草雲。1981年頃。写真は谷口信夫所蔵。

作者

谷口草雲

谷口草雲が彫刻の道に入ったのは15歳の頃。絵が上手だと言われたことがきっかけでした。井波で二代大島五雲に師事し、草雲という号は、師・五雲と同じ「雲」の字で終わります。2025年の米国巡回展でモリカミを訪れた三代南部白雲も、同じ流れをくむ彫刻師です。

息子の信夫は、父をまじめで寡黙な職人として記憶しています。草雲はとりわけ風景欄間で知られ、手本のない新しい風景の注文を好んで引き受けました。兼見御亭の欄間を彫ったのは60代のときで、しばしば夜遅くまで仕事に向かっていたといいます。展覧会のための自分の作品もつくりたいと願い、県展には3度出品しましたが、いつも注文の仕事が待っていました。

父と子

谷口信夫

「いい弟子ではなかったかもしれません。でも父は、いい息子でいさせてくれました。」

つばの広い帽子をかぶり、工房で木塊に槌でノミを打ち込む谷口信夫
工房で彫刻する谷口信夫、2024年。

これらの欄間がつくられた当時、信夫はまだ父の工房で修業中でした。主要な部分は草雲が彫り、信夫や工房の弟子たちが松や竹、梅の細部を手伝いました。那谷寺の欄間では、總持寺の上に自分が彫った松を、信夫はいまも見分けることができます。

注文仕事に追われて自らは展覧会の制作に打ち込めなかった草雲ですが、息子にその仕事を無理に手伝わせることはしませんでした。信夫には自由に自分の作品をつくらせました。やがて信夫は日展で2度の特選を受け、2026年には審査員も務めました。草雲が面と向かって息子をほめることはありませんでしたが、信夫の日展入選を誇らしげに人に話していたことを、信夫はのちに周囲から聞かされました。

2026年、欄間を送り出す準備のなかで、信夫は7点を清掃し、制作当時から残されていた同じ楠の端材で補修しました。楠には塗装が施されておらず、制作当初は白っぽかった木肌が、40年を経て深い茶色に変わっています。そのため補修した箇所は新しい木肌が白く浮き、信夫は周囲になじむよう色を整えました。

40年以上を経て7点がふたたびそろったのを目にした信夫は、「すごい仕事をしたもんです」と語りました。フロリダへ渡ることについては、「日展には出せなかったけれど、これは日展よりもっと晴れがましいことです。父もきっと喜んでいると思います」と話しています。

中嶋勝彦による谷口信夫へのインタビュー(2026年9月)より。

井波からモリカミへ

縁のはじまり

テーブルに並べた欄間の大判写真をのぞき込む、カリム・サルジ、三代南部白雲、モリカミの職員たち
モリカミのスタッフとともに欄間の大判写真を囲んで。2025年12月。

Poiesisの創設者カリム・サルジが19歳の学生として初めて井波の彫刻師たちに連絡をとったとき、最初に応えて彼を迎え入れたのが、谷口信夫でした。

2025年、橋渡し役となったのが富山県議会議員の武田慎一です。武田は信夫に、父・草雲の欄間が7点とも残っていること、馬場家が保管してきたこと、そして馬場華幸がそれらを井波彫刻協同組合に寄贈する意向であることを伝えました。信夫は欄間を確かめて父の作であることを認め、米国で保存・展示してくれる場所を探す手助けをカリムに頼みました。ここから、モリカミへの道が始まりました。武田はカリムとも面識がありました。武田が富山県の新田八朗知事に同行してプリンストン大学を訪れた折に、二人は出会っていたのです。

2025年12月、井波彫刻の米国巡回展のさなかに、カリム、中嶋勝彦、三代南部白雲がデルレイビーチのモリカミ博物館・日本庭園を訪れました。欄間の大判写真と下絵の一部を前に、作品とその来歴、そして井波の技を新たな鑑賞者にどう届けるかについて、対話が始まりました。

2026年4月、モリカミから、理事会が7点の受け入れを承認したとの正式な連絡が届きました。そして同年9月18日、井波の訓練校で、馬場家は井波彫刻協同組合への寄贈書に署名しました。この日に向けて、カリムとモリカミの代表者がビデオメッセージを寄せました。

「最後に人の心を動かすものは人の手から生まれたものではないかと、私は思っています」

馬場華幸、調印式にて。2026年9月18日。
あいさつ全文

調印式にて · 井波、2026年9月18日

井波彫刻協同組合の皆様へ。

本日は、このような大変有意義な機会をいただき、心よりお礼を申し上げます。

このたび、馬場家が長年にわたり大切に受け継ぎ、守ってまいりました井波彫刻の欄間7点を、アメリカのモリカミ美術館へ寄贈させていただくこととなりました。

この欄間は、私たち家族にとって単なる美術品ではありません。そこには、先人たちの思いがあり、彫刻を手がけた職人の技と誇りがあって、そして、この土地で受け継がれてきた日本の文化そのものだと想っております。

この欄間は昭和の時代に生まれ、平成を超え、そして令和の今まで馬場家とともに時を重ねてきました。時代が変わり、暮らしが変わり、社会が大きく変化しても、この欄間に刻まれた職人の手仕事、何一つ失われることなく今日まで残されています。

そして私たちは今、AIや機械が急速に発達する時代に生きています。これから様々なものが機械によって多く作られ、技術によって早く便利になっていくでしょう。しかし、どれほど時代が進んでも、最後に人の心を動かすものは人の手から生まれたものではないかと、私は思っています。

木に触れ、木の声を聞き、一彫り、一彫りに魂を込める。そこには機械では置き換えることのできない、職人の時間と、そして感性、人生そのものがあったのだと思います。それこそが手仕事の価値であり、井波彫刻がこれからの時代にも残り続ける理由だと思っております。

長い年月、馬場家の中で守られてきた欄間が、これから海を越え、アメリカの美術館という新たな場所で、多くの方々の目に触れることになります。

私は今回の寄贈を、一つの家の所蔵品が海外へ渡るということだけでは考えてはおりません。これは井波彫刻に携わってこられた多くの職人の皆様、そして今もこの伝統を守り、次の世代へ繋ごうとしている皆様の夢を背負って、7点の欄間が世界へ旅立つことだと思っております。

かつて日本の浮世絵が海を渡り、ゴッホやモネ、海外の芸術家たちの心を動かし、やがて世界からその価値を再発見されたように、日本には私たち日本人自身がまだ十分に気づいていない、世界に誇るべき文化や技が数多くあります。井波彫刻も、まさにその一つだと考えております。

昭和から平成へ、平成から令和へ、そして今度は日本からアメリカへ。この7点の欄間が時代も国境も超えて、次の100年へと受け継がれていく。そう考えると、今日という日は、この欄間にとって新しい歴史の始まりなのだと思います。

何十年、何百年と受け継がれてきた技術が、国境や言葉を越えて人の心を動かし、日本にはこれほど素晴らしいものがあると、世界の方々に知っていただける。もし今回の寄贈がその一歩になるのであれば、馬場家にとりましてこれほど嬉しく、誇らしいことはありません。

そして何より、これら井波彫刻を志す若い職人の皆様に、「自分たちの手は世界へ届く」「自分たちの技術は世界の人々の心を動かすことができる」、そう信じていただけるきっかけになってほしいと願っています。

今日、私たちは7点の欄間を手放すのではありません。7点の欄間に新しい未来を託します。

馬場家から世界へ、そして井波から世界へ。昭和、平成、令和へと受け継がれてきたこの欄間が、アメリカの地で新たな時を刻み、これから先も長く日本の職人の魂と井波彫刻の素晴らしさを伝え続けてくれることを心から願っております。

このご縁を結んでくださったすべての皆様に改めて深く感謝申し上げます。

ありがとうございました。

馬場華幸

株式会社見城亭 女将 · 2026年9月18日

当日のあいさつの原文です(言い直しのみ整えています)。

欄間とその下絵の後ろに4人が並び、うち2人が署名済みの書面を手にしている
署名を終えた書面と、欄間1点およびその下絵。井波、2026年9月18日。左から、富山県議会議員の武田慎一、馬場華幸、井波彫刻協同組合理事長の酒井秀哲、谷口信夫。

これから

続いていく縁

信夫は、この欄間が父をたたえるだけで終わらないことを願っています。モリカミで初めて井波彫刻に出会った人が、作品を手元に置きたい、井波を訪ねたい、彫刻を学びたいと思うかもしれない。そして彫刻師に新たな仕事が生まれてこそ、次の世代がその後に続くことができるのです。

7点の欄間は現在、フロリダへの旅立ちに向けて準備が進められています。その間、私たちはモリカミとともに、講演や彫刻の実演、井波の彫刻師たちと出会える機会など、この寄贈にちなんだ文化プログラムを計画しています。詳細は決まりしだいお知らせします。

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