01
琴柱灯籠



金沢城、白山、亀甲橋、唐崎松、琴柱灯籠
別々の名所が一続きの風景にまとめられ、手前には大きな木々が、遠くには小さく浅く彫られた建物が配されています。草雲は以前にも、より小さな欄間で琴柱灯籠を彫ったことがありましたが、この長さに合わせて松を大きくし、紅葉を加え、余白を広くとりました。
詳細
- 作品名
- 《琴柱灯籠を含む景観》
- 寸法
- 2818 × 400 × 70 mm
- 重量
- 13.9 kg
- 素材
- 台湾楠
- 制作
- 谷口草雲、1981年
ジャーナル · 2026年
谷口草雲が1981年に金沢の料亭のために彫った欄間7点が、フロリダ州デルレイビーチのモリカミ博物館・日本庭園へ寄贈されます

《根上松を含む景観》表面。谷口草雲、1981年。幅約2.82メートル。スワイプして全体をご覧ください。
40年近くにわたり、谷口草雲の彫った7点の欄間が、金沢・兼六園のそばの料亭を飾っていました。
その料亭、兼見御亭(けんけんおちん)が2019年に閉店したのちも、欄間を依頼した馬場家は7点をそろえたまま保管してきました。2026年9月、馬場家はこれらを井波彫刻協同組合に譲り渡し、組合がフロリダ州のモリカミ博物館・日本庭園に寄贈します。同館も、所蔵品として受け入れることを承諾しています。
Poiesisはこの寄贈の調整に協力しており、組合、中嶋勝彦、馬場家と谷口家、そして同館と連携しています。現在、作品の移送と今後の展示に向けた準備が進められています。
1981年から2026年へ
兼見御亭は、兼六園のそばにあった料亭です。馬場吉晃は、その大広間をいっそう立派に見せようと、石川の風景を描いた並外れて長い欄間を草雲に依頼しました。その幅は広間の大きさに見合ったもので、4点の風景欄間はいずれも幅約2.82メートルにおよびます。一般の住宅の欄間よりはるかに長い寸法です。
草雲は、金沢城と琴柱灯籠、加賀・能登の寺々、兼六園の庭など、離れた場所どうしを一続きの風景に組み立て、それぞれの大きさや奥行きを調整して一枚の板に収めました。さらに2点には竹・菊・梅・蘭の四君子が、7点目には老松が彫られています。
料亭は2019年に閉店し、建物はのちに取り壊されました。馬場家は欄間を取り外して7点をそろえたまま保管し、はじめは小矢部市の建具店に、2026年には井波木彫刻工芸高等職業訓練校に預けました。


7点の作品
厚さ約7センチの板に彫られた欄間では、手前のものほど前へせり出し、遠くの建物は奥へ退いています。光が透け、下から見上げたときに奥行きが読み取れるようにするこの手法を、「見込み」と呼びます。草雲が下絵を描いたのは各欄間の表面だけで、裏面は木の中にもう一つの風景を見出しながら、自在に彫り上げました。
7点は互いの縮尺をそろえて表示しています。それぞれ横にスワイプしてご覧ください。
I
一対目の風景欄間
01



金沢城、白山、亀甲橋、唐崎松、琴柱灯籠
別々の名所が一続きの風景にまとめられ、手前には大きな木々が、遠くには小さく浅く彫られた建物が配されています。草雲は以前にも、より小さな欄間で琴柱灯籠を彫ったことがありましたが、この長さに合わせて松を大きくし、紅葉を加え、余白を広くとりました。
02



安宅の関、能登金剛、那谷寺、妙成寺の五重塔、時国家、總持寺
加賀・能登の各地の名所が一つの画面に集められています。總持寺の上にのびる松の一部は谷口信夫が彫ったもので、1981年頃の写真に、この欄間に取り組む草雲の姿が残っています。
II
二対目の風景欄間
兼見御亭のために新たに構想された一対。2点を並べて掛けると、長さ約5.6メートルの一続きの風景になります。
03



兼六園の根上松、成巽閣、曲水、兼六園菊桜、内橋亭
地上にあらわれた松の根のあいだを透かし彫りにすることで、場面に奥行きが生まれています。もとの兼六園菊桜は1970年にすでに枯れており、この欄間は記憶のなかの風景をもとどめています。
04



尾山神社、夕顔亭、海石塔、蓮池門跡、金城霊沢
庭園の景物と神社の建築が一枚の長い風景を満たし、琴柱灯籠の欄間よりも建物が密に配されています。いまあらためて見て、信夫は「父は、あれも入れたい、これも入れたいと思ったんでしょうね」と言います。
III
四君子
05



竹の幹と葉、菊の花
重なり合う竹と、せり出した菊の花びらが、それぞれ異なる奥行きに彫り分けられています。表と裏とでは、彫り手の判断も異なります。
06



うろのある梅の古木の幹、枝、花、蘭の葉
ねじれてうろの開いた梅の幹と、大ぶりに表した花、細くしなやかな蘭の葉とが、互いに釣り合っています。信夫はこの幹を作品の見どころの一つに挙げます。信夫自身、梅の欄間を最初から最後まで一人で彫り上げたのは、彫刻師としての歩みのなかでただ一度だけだといいます。
IV
老松
07



横に長く枝を張る、ねじれた老松
枝や松葉が枠を越えて外へはみ出す、「こぼし」と呼ばれる技法が用いられています。表と裏は同じ一本の松ですが、枝ぶりはそれぞれ異なります。


作者
谷口草雲が彫刻の道に入ったのは15歳の頃。絵が上手だと言われたことがきっかけでした。井波で二代大島五雲に師事し、草雲という号は、師・五雲と同じ「雲」の字で終わります。2025年の米国巡回展でモリカミを訪れた三代南部白雲も、同じ流れをくむ彫刻師です。
息子の信夫は、父をまじめで寡黙な職人として記憶しています。草雲はとりわけ風景欄間で知られ、手本のない新しい風景の注文を好んで引き受けました。兼見御亭の欄間を彫ったのは60代のときで、しばしば夜遅くまで仕事に向かっていたといいます。展覧会のための自分の作品もつくりたいと願い、県展には3度出品しましたが、いつも注文の仕事が待っていました。
父と子
「いい弟子ではなかったかもしれません。でも父は、いい息子でいさせてくれました。」

これらの欄間がつくられた当時、信夫はまだ父の工房で修業中でした。主要な部分は草雲が彫り、信夫や工房の弟子たちが松や竹、梅の細部を手伝いました。那谷寺の欄間では、總持寺の上に自分が彫った松を、信夫はいまも見分けることができます。
注文仕事に追われて自らは展覧会の制作に打ち込めなかった草雲ですが、息子にその仕事を無理に手伝わせることはしませんでした。信夫には自由に自分の作品をつくらせました。やがて信夫は日展で2度の特選を受け、2026年には審査員も務めました。草雲が面と向かって息子をほめることはありませんでしたが、信夫の日展入選を誇らしげに人に話していたことを、信夫はのちに周囲から聞かされました。
2026年、欄間を送り出す準備のなかで、信夫は7点を清掃し、制作当時から残されていた同じ楠の端材で補修しました。楠には塗装が施されておらず、制作当初は白っぽかった木肌が、40年を経て深い茶色に変わっています。そのため補修した箇所は新しい木肌が白く浮き、信夫は周囲になじむよう色を整えました。
40年以上を経て7点がふたたびそろったのを目にした信夫は、「すごい仕事をしたもんです」と語りました。フロリダへ渡ることについては、「日展には出せなかったけれど、これは日展よりもっと晴れがましいことです。父もきっと喜んでいると思います」と話しています。
中嶋勝彦による谷口信夫へのインタビュー(2026年9月)より。
井波からモリカミへ

Poiesisの創設者カリム・サルジが19歳の学生として初めて井波の彫刻師たちに連絡をとったとき、最初に応えて彼を迎え入れたのが、谷口信夫でした。
2025年、橋渡し役となったのが富山県議会議員の武田慎一です。武田は信夫に、父・草雲の欄間が7点とも残っていること、馬場家が保管してきたこと、そして馬場華幸がそれらを井波彫刻協同組合に寄贈する意向であることを伝えました。信夫は欄間を確かめて父の作であることを認め、米国で保存・展示してくれる場所を探す手助けをカリムに頼みました。ここから、モリカミへの道が始まりました。武田はカリムとも面識がありました。武田が富山県の新田八朗知事に同行してプリンストン大学を訪れた折に、二人は出会っていたのです。
2025年12月、井波彫刻の米国巡回展のさなかに、カリム、中嶋勝彦、三代南部白雲がデルレイビーチのモリカミ博物館・日本庭園を訪れました。欄間の大判写真と下絵の一部を前に、作品とその来歴、そして井波の技を新たな鑑賞者にどう届けるかについて、対話が始まりました。
2026年4月、モリカミから、理事会が7点の受け入れを承認したとの正式な連絡が届きました。そして同年9月18日、井波の訓練校で、馬場家は井波彫刻協同組合への寄贈書に署名しました。この日に向けて、カリムとモリカミの代表者がビデオメッセージを寄せました。
「最後に人の心を動かすものは人の手から生まれたものではないかと、私は思っています」
調印式にて · 井波、2026年9月18日
井波彫刻協同組合の皆様へ。
本日は、このような大変有意義な機会をいただき、心よりお礼を申し上げます。
このたび、馬場家が長年にわたり大切に受け継ぎ、守ってまいりました井波彫刻の欄間7点を、アメリカのモリカミ美術館へ寄贈させていただくこととなりました。
この欄間は、私たち家族にとって単なる美術品ではありません。そこには、先人たちの思いがあり、彫刻を手がけた職人の技と誇りがあって、そして、この土地で受け継がれてきた日本の文化そのものだと想っております。
この欄間は昭和の時代に生まれ、平成を超え、そして令和の今まで馬場家とともに時を重ねてきました。時代が変わり、暮らしが変わり、社会が大きく変化しても、この欄間に刻まれた職人の手仕事、何一つ失われることなく今日まで残されています。
そして私たちは今、AIや機械が急速に発達する時代に生きています。これから様々なものが機械によって多く作られ、技術によって早く便利になっていくでしょう。しかし、どれほど時代が進んでも、最後に人の心を動かすものは人の手から生まれたものではないかと、私は思っています。
木に触れ、木の声を聞き、一彫り、一彫りに魂を込める。そこには機械では置き換えることのできない、職人の時間と、そして感性、人生そのものがあったのだと思います。それこそが手仕事の価値であり、井波彫刻がこれからの時代にも残り続ける理由だと思っております。
長い年月、馬場家の中で守られてきた欄間が、これから海を越え、アメリカの美術館という新たな場所で、多くの方々の目に触れることになります。
私は今回の寄贈を、一つの家の所蔵品が海外へ渡るということだけでは考えてはおりません。これは井波彫刻に携わってこられた多くの職人の皆様、そして今もこの伝統を守り、次の世代へ繋ごうとしている皆様の夢を背負って、7点の欄間が世界へ旅立つことだと思っております。
かつて日本の浮世絵が海を渡り、ゴッホやモネ、海外の芸術家たちの心を動かし、やがて世界からその価値を再発見されたように、日本には私たち日本人自身がまだ十分に気づいていない、世界に誇るべき文化や技が数多くあります。井波彫刻も、まさにその一つだと考えております。
昭和から平成へ、平成から令和へ、そして今度は日本からアメリカへ。この7点の欄間が時代も国境も超えて、次の100年へと受け継がれていく。そう考えると、今日という日は、この欄間にとって新しい歴史の始まりなのだと思います。
何十年、何百年と受け継がれてきた技術が、国境や言葉を越えて人の心を動かし、日本にはこれほど素晴らしいものがあると、世界の方々に知っていただける。もし今回の寄贈がその一歩になるのであれば、馬場家にとりましてこれほど嬉しく、誇らしいことはありません。
そして何より、これら井波彫刻を志す若い職人の皆様に、「自分たちの手は世界へ届く」「自分たちの技術は世界の人々の心を動かすことができる」、そう信じていただけるきっかけになってほしいと願っています。
今日、私たちは7点の欄間を手放すのではありません。7点の欄間に新しい未来を託します。
馬場家から世界へ、そして井波から世界へ。昭和、平成、令和へと受け継がれてきたこの欄間が、アメリカの地で新たな時を刻み、これから先も長く日本の職人の魂と井波彫刻の素晴らしさを伝え続けてくれることを心から願っております。
このご縁を結んでくださったすべての皆様に改めて深く感謝申し上げます。
ありがとうございました。
馬場華幸
株式会社見城亭 女将 · 2026年9月18日
当日のあいさつの原文です(言い直しのみ整えています)。

これから
信夫は、この欄間が父をたたえるだけで終わらないことを願っています。モリカミで初めて井波彫刻に出会った人が、作品を手元に置きたい、井波を訪ねたい、彫刻を学びたいと思うかもしれない。そして彫刻師に新たな仕事が生まれてこそ、次の世代がその後に続くことができるのです。
7点の欄間は現在、フロリダへの旅立ちに向けて準備が進められています。その間、私たちはモリカミとともに、講演や彫刻の実演、井波の彫刻師たちと出会える機会など、この寄贈にちなんだ文化プログラムを計画しています。詳細は決まりしだいお知らせします。
お知らせを受け取る
プログラムや展覧会の情報、井波からのニュースをメールでお届けします。
KNBニュース(ライブドアニュース経由)
2026年9月18日
伝統工芸「井波彫刻」の欄間大作7点 アメリカの博物館へ
Seven large Inami ranma to go to an American museum
記事を読む北日本新聞
2026年9月19日
井波彫刻協同組合、販路開拓へ 米の博物館に大型欄間7点
Seven large ranma for an American museum
記事を読む富山新聞
2026年9月19日
井波の欄間、海を渡る 米国の博物館に寄贈
Inami ranma cross the sea, donated to an American museum
記事を読む北國新聞
2026年9月20日
金沢の旧料理店「兼見御亭」から欄間7点海渡る
Seven ranma from Kanazawa’s former Kenkenochin cross the sea
記事を読む井波彫刻協同組合 ウェブコラム
2026年10月7日
豪華な井波彫刻の欄間、アメリカ・フロリダの博物館へ
Inami ranma for a museum in Florida
記事を読むジャーナル · 2026年
谷口草雲が1981年に金沢の料亭のために彫った欄間7点が、フロリダ州デルレイビーチのモリカミ博物館・日本庭園へ寄贈されます

《根上松を含む景観》表面。谷口草雲、1981年。幅約2.82メートル。スワイプして全体をご覧ください。
40年近くにわたり、谷口草雲の彫った7点の欄間が、金沢・兼六園のそばの料亭を飾っていました。
その料亭、兼見御亭(けんけんおちん)が2019年に閉店したのちも、欄間を依頼した馬場家は7点をそろえたまま保管してきました。2026年9月、馬場家はこれらを井波彫刻協同組合に譲り渡し、組合がフロリダ州のモリカミ博物館・日本庭園に寄贈します。同館も、所蔵品として受け入れることを承諾しています。
Poiesisはこの寄贈の調整に協力しており、組合、中嶋勝彦、馬場家と谷口家、そして同館と連携しています。現在、作品の移送と今後の展示に向けた準備が進められています。
1981年から2026年へ
兼見御亭は、兼六園のそばにあった料亭です。馬場吉晃は、その大広間をいっそう立派に見せようと、石川の風景を描いた並外れて長い欄間を草雲に依頼しました。その幅は広間の大きさに見合ったもので、4点の風景欄間はいずれも幅約2.82メートルにおよびます。一般の住宅の欄間よりはるかに長い寸法です。
草雲は、金沢城と琴柱灯籠、加賀・能登の寺々、兼六園の庭など、離れた場所どうしを一続きの風景に組み立て、それぞれの大きさや奥行きを調整して一枚の板に収めました。さらに2点には竹・菊・梅・蘭の四君子が、7点目には老松が彫られています。
料亭は2019年に閉店し、建物はのちに取り壊されました。馬場家は欄間を取り外して7点をそろえたまま保管し、はじめは小矢部市の建具店に、2026年には井波木彫刻工芸高等職業訓練校に預けました。


7点の作品
厚さ約7センチの板に彫られた欄間では、手前のものほど前へせり出し、遠くの建物は奥へ退いています。光が透け、下から見上げたときに奥行きが読み取れるようにするこの手法を、「見込み」と呼びます。草雲が下絵を描いたのは各欄間の表面だけで、裏面は木の中にもう一つの風景を見出しながら、自在に彫り上げました。
7点は互いの縮尺をそろえて表示しています。それぞれ横にスワイプしてご覧ください。
I
一対目の風景欄間
01



金沢城、白山、亀甲橋、唐崎松、琴柱灯籠
別々の名所が一続きの風景にまとめられ、手前には大きな木々が、遠くには小さく浅く彫られた建物が配されています。草雲は以前にも、より小さな欄間で琴柱灯籠を彫ったことがありましたが、この長さに合わせて松を大きくし、紅葉を加え、余白を広くとりました。
02



安宅の関、能登金剛、那谷寺、妙成寺の五重塔、時国家、總持寺
加賀・能登の各地の名所が一つの画面に集められています。總持寺の上にのびる松の一部は谷口信夫が彫ったもので、1981年頃の写真に、この欄間に取り組む草雲の姿が残っています。
II
二対目の風景欄間
兼見御亭のために新たに構想された一対。2点を並べて掛けると、長さ約5.6メートルの一続きの風景になります。
03



兼六園の根上松、成巽閣、曲水、兼六園菊桜、内橋亭
地上にあらわれた松の根のあいだを透かし彫りにすることで、場面に奥行きが生まれています。もとの兼六園菊桜は1970年にすでに枯れており、この欄間は記憶のなかの風景をもとどめています。
04



尾山神社、夕顔亭、海石塔、蓮池門跡、金城霊沢
庭園の景物と神社の建築が一枚の長い風景を満たし、琴柱灯籠の欄間よりも建物が密に配されています。いまあらためて見て、信夫は「父は、あれも入れたい、これも入れたいと思ったんでしょうね」と言います。
III
四君子
05



竹の幹と葉、菊の花
重なり合う竹と、せり出した菊の花びらが、それぞれ異なる奥行きに彫り分けられています。表と裏とでは、彫り手の判断も異なります。
06



うろのある梅の古木の幹、枝、花、蘭の葉
ねじれてうろの開いた梅の幹と、大ぶりに表した花、細くしなやかな蘭の葉とが、互いに釣り合っています。信夫はこの幹を作品の見どころの一つに挙げます。信夫自身、梅の欄間を最初から最後まで一人で彫り上げたのは、彫刻師としての歩みのなかでただ一度だけだといいます。
IV
老松
07



横に長く枝を張る、ねじれた老松
枝や松葉が枠を越えて外へはみ出す、「こぼし」と呼ばれる技法が用いられています。表と裏は同じ一本の松ですが、枝ぶりはそれぞれ異なります。


作者
谷口草雲が彫刻の道に入ったのは15歳の頃。絵が上手だと言われたことがきっかけでした。井波で二代大島五雲に師事し、草雲という号は、師・五雲と同じ「雲」の字で終わります。2025年の米国巡回展でモリカミを訪れた三代南部白雲も、同じ流れをくむ彫刻師です。
息子の信夫は、父をまじめで寡黙な職人として記憶しています。草雲はとりわけ風景欄間で知られ、手本のない新しい風景の注文を好んで引き受けました。兼見御亭の欄間を彫ったのは60代のときで、しばしば夜遅くまで仕事に向かっていたといいます。展覧会のための自分の作品もつくりたいと願い、県展には3度出品しましたが、いつも注文の仕事が待っていました。
父と子
「いい弟子ではなかったかもしれません。でも父は、いい息子でいさせてくれました。」

これらの欄間がつくられた当時、信夫はまだ父の工房で修業中でした。主要な部分は草雲が彫り、信夫や工房の弟子たちが松や竹、梅の細部を手伝いました。那谷寺の欄間では、總持寺の上に自分が彫った松を、信夫はいまも見分けることができます。
注文仕事に追われて自らは展覧会の制作に打ち込めなかった草雲ですが、息子にその仕事を無理に手伝わせることはしませんでした。信夫には自由に自分の作品をつくらせました。やがて信夫は日展で2度の特選を受け、2026年には審査員も務めました。草雲が面と向かって息子をほめることはありませんでしたが、信夫の日展入選を誇らしげに人に話していたことを、信夫はのちに周囲から聞かされました。
2026年、欄間を送り出す準備のなかで、信夫は7点を清掃し、制作当時から残されていた同じ楠の端材で補修しました。楠には塗装が施されておらず、制作当初は白っぽかった木肌が、40年を経て深い茶色に変わっています。そのため補修した箇所は新しい木肌が白く浮き、信夫は周囲になじむよう色を整えました。
40年以上を経て7点がふたたびそろったのを目にした信夫は、「すごい仕事をしたもんです」と語りました。フロリダへ渡ることについては、「日展には出せなかったけれど、これは日展よりもっと晴れがましいことです。父もきっと喜んでいると思います」と話しています。
中嶋勝彦による谷口信夫へのインタビュー(2026年9月)より。
井波からモリカミへ

Poiesisの創設者カリム・サルジが19歳の学生として初めて井波の彫刻師たちに連絡をとったとき、最初に応えて彼を迎え入れたのが、谷口信夫でした。
2025年、橋渡し役となったのが富山県議会議員の武田慎一です。武田は信夫に、父・草雲の欄間が7点とも残っていること、馬場家が保管してきたこと、そして馬場華幸がそれらを井波彫刻協同組合に寄贈する意向であることを伝えました。信夫は欄間を確かめて父の作であることを認め、米国で保存・展示してくれる場所を探す手助けをカリムに頼みました。ここから、モリカミへの道が始まりました。武田はカリムとも面識がありました。武田が富山県の新田八朗知事に同行してプリンストン大学を訪れた折に、二人は出会っていたのです。
2025年12月、井波彫刻の米国巡回展のさなかに、カリム、中嶋勝彦、三代南部白雲がデルレイビーチのモリカミ博物館・日本庭園を訪れました。欄間の大判写真と下絵の一部を前に、作品とその来歴、そして井波の技を新たな鑑賞者にどう届けるかについて、対話が始まりました。
2026年4月、モリカミから、理事会が7点の受け入れを承認したとの正式な連絡が届きました。そして同年9月18日、井波の訓練校で、馬場家は井波彫刻協同組合への寄贈書に署名しました。この日に向けて、カリムとモリカミの代表者がビデオメッセージを寄せました。
「最後に人の心を動かすものは人の手から生まれたものではないかと、私は思っています」
調印式にて · 井波、2026年9月18日
井波彫刻協同組合の皆様へ。
本日は、このような大変有意義な機会をいただき、心よりお礼を申し上げます。
このたび、馬場家が長年にわたり大切に受け継ぎ、守ってまいりました井波彫刻の欄間7点を、アメリカのモリカミ美術館へ寄贈させていただくこととなりました。
この欄間は、私たち家族にとって単なる美術品ではありません。そこには、先人たちの思いがあり、彫刻を手がけた職人の技と誇りがあって、そして、この土地で受け継がれてきた日本の文化そのものだと想っております。
この欄間は昭和の時代に生まれ、平成を超え、そして令和の今まで馬場家とともに時を重ねてきました。時代が変わり、暮らしが変わり、社会が大きく変化しても、この欄間に刻まれた職人の手仕事、何一つ失われることなく今日まで残されています。
そして私たちは今、AIや機械が急速に発達する時代に生きています。これから様々なものが機械によって多く作られ、技術によって早く便利になっていくでしょう。しかし、どれほど時代が進んでも、最後に人の心を動かすものは人の手から生まれたものではないかと、私は思っています。
木に触れ、木の声を聞き、一彫り、一彫りに魂を込める。そこには機械では置き換えることのできない、職人の時間と、そして感性、人生そのものがあったのだと思います。それこそが手仕事の価値であり、井波彫刻がこれからの時代にも残り続ける理由だと思っております。
長い年月、馬場家の中で守られてきた欄間が、これから海を越え、アメリカの美術館という新たな場所で、多くの方々の目に触れることになります。
私は今回の寄贈を、一つの家の所蔵品が海外へ渡るということだけでは考えてはおりません。これは井波彫刻に携わってこられた多くの職人の皆様、そして今もこの伝統を守り、次の世代へ繋ごうとしている皆様の夢を背負って、7点の欄間が世界へ旅立つことだと思っております。
かつて日本の浮世絵が海を渡り、ゴッホやモネ、海外の芸術家たちの心を動かし、やがて世界からその価値を再発見されたように、日本には私たち日本人自身がまだ十分に気づいていない、世界に誇るべき文化や技が数多くあります。井波彫刻も、まさにその一つだと考えております。
昭和から平成へ、平成から令和へ、そして今度は日本からアメリカへ。この7点の欄間が時代も国境も超えて、次の100年へと受け継がれていく。そう考えると、今日という日は、この欄間にとって新しい歴史の始まりなのだと思います。
何十年、何百年と受け継がれてきた技術が、国境や言葉を越えて人の心を動かし、日本にはこれほど素晴らしいものがあると、世界の方々に知っていただける。もし今回の寄贈がその一歩になるのであれば、馬場家にとりましてこれほど嬉しく、誇らしいことはありません。
そして何より、これら井波彫刻を志す若い職人の皆様に、「自分たちの手は世界へ届く」「自分たちの技術は世界の人々の心を動かすことができる」、そう信じていただけるきっかけになってほしいと願っています。
今日、私たちは7点の欄間を手放すのではありません。7点の欄間に新しい未来を託します。
馬場家から世界へ、そして井波から世界へ。昭和、平成、令和へと受け継がれてきたこの欄間が、アメリカの地で新たな時を刻み、これから先も長く日本の職人の魂と井波彫刻の素晴らしさを伝え続けてくれることを心から願っております。
このご縁を結んでくださったすべての皆様に改めて深く感謝申し上げます。
ありがとうございました。
馬場華幸
株式会社見城亭 女将 · 2026年9月18日
当日のあいさつの原文です(言い直しのみ整えています)。

これから
信夫は、この欄間が父をたたえるだけで終わらないことを願っています。モリカミで初めて井波彫刻に出会った人が、作品を手元に置きたい、井波を訪ねたい、彫刻を学びたいと思うかもしれない。そして彫刻師に新たな仕事が生まれてこそ、次の世代がその後に続くことができるのです。
7点の欄間は現在、フロリダへの旅立ちに向けて準備が進められています。その間、私たちはモリカミとともに、講演や彫刻の実演、井波の彫刻師たちと出会える機会など、この寄贈にちなんだ文化プログラムを計画しています。詳細は決まりしだいお知らせします。
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2026年9月18日
伝統工芸「井波彫刻」の欄間大作7点 アメリカの博物館へ
Seven large Inami ranma to go to an American museum
記事を読む北日本新聞
2026年9月19日
井波彫刻協同組合、販路開拓へ 米の博物館に大型欄間7点
Seven large ranma for an American museum
記事を読む富山新聞
2026年9月19日
井波の欄間、海を渡る 米国の博物館に寄贈
Inami ranma cross the sea, donated to an American museum
記事を読む北國新聞
2026年9月20日
金沢の旧料理店「兼見御亭」から欄間7点海渡る
Seven ranma from Kanazawa’s former Kenkenochin cross the sea
記事を読む井波彫刻協同組合 ウェブコラム
2026年10月7日
豪華な井波彫刻の欄間、アメリカ・フロリダの博物館へ
Inami ranma for a museum in Florida
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